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フリコが虹の橋をわたってから 5days passed.
愛犬フリコが亡くなってから5日が過ぎていた。
フリコの気配がそこここにする家の中にいるのが辛い。
高校生の娘が心のやり場がなくなって身体の痛みを訴えてきたので、二つ返事で学校の送迎をする。彼女にとっては、生まれてから初めての身内の死。しかも小さい頃はアレルギーがあって犬との生活を切望していたのに叶わなかったり、自分が末っ子だから妹が欲しいとか言う中で、満を持して我が家に来てくれて彼女の人生の半分以上を一緒に過ごした大切な存在の愛犬が、目の前で発作で苦しみながら亡くなったトラウマティックな経験だったわけで、昨日まで私にもあった横隔膜あたりの痛みもしみじみわかりすぎる。
大人でも有給休暇があるのだから、学生も様々な調整のために年休として数日の特別休暇があったらいいのにと思う。
明日で亡くなってから1週間が経とうとしている。全然そんな気がしない。もっと時間が経っている様にも感じるし、家に帰ってたらいつものように待っててくれるフリコがいるようにも感じてしまう。
昨日は本当に闇のなかにいた。なにをしてもダメ。
先日、私を気遣ってくれた妹と姪が温泉に付き合ってくれた。ゆるんだり温めたりするのは、特にストレスがある時はとても身体が冷えやすくなるから大切なこと。有り難かったし、この日はなんとか大丈夫だった。
でも今日は生きたあたたかい身体なのに胸のあたりから凍った溜め息が出てくる感じ。その息は吐いても吐いてもまだ胸のあたりにあって、その通り道は凍ってしまってアイスバーン。内側から凍傷になってるかんじ。
自分のことながら、どうしたものか?お母さんは家の太陽。お母さんが元気がないと家族にも良い影響はない。
小さな生活の癖や話し方が似るように、いろんなことが家族ひとりひとりのデフォルト設定になり、それが当たり前になってしまって、それが途中誰かが気づくまで脈々と続いていく。いいものも、そうじゃないものも。その家系の縦ラインのなかで気づいたものが家族のカルマの様なものを昇華することができるような気がしている。
が!しかしながら、お母さんだからって無理ばかりをするということではないのは、自らの過去の痛い経験から知っている。自分を完全に犠牲にしてはいけない。自己犠牲が愛ではない。本当の意味で自分の目の前の役割とのバランスをしっかり取れる人、自分を自分で癒す方法を知っている人が真の大人であると思う。
人生はバランスが必要なところにバランスを取ることがもたらされるなあとしみじみ。
今日は朝から身体を温めるのにシャワーしてから簡単で軽いヨガをする。「心が辛い時は身体を養う 身体が辛い時は心を養う」という言葉にインスパイアされてヨガをゆるくほぼ毎日するようになって久しい。
また、シャワーを浴びる、掃除をする、洗い流すという行為は、まわりに付着している見える見えない両方の澱みたいのをきれいにしてくれるし、簡単なヨガと深い呼吸法は、すうーっと身体の隅々の毛細血管まで血が到達しているのが感じられる。
他には、あたたかいものを食べる。寝る。あたためる。深呼吸する。寝る(←しつこいが大事)。肩甲骨をまわす。背中で肩甲骨どうしをくっつけて横隔膜あたりから上の胸を1日に何回か開く。好きな音楽を聞く。好きな食べ物を食べる。小さな良いこと探し。少しだけ笑えることを探す。朝起きたときに声に出して「わたしは健康です」など今なりたい自分を〇〇に入れて「わたしは〇〇です」と言ってから起き上がる。などを繰り返して少しだけ浮上できたので備忘録として記しておこう。
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