フリコが虹の橋をわたってから 3days passed.
12月2日(土曜日)
フラが亡くなって今日はまた悲しみが押し寄せている。
最初の1週間は毎日ちゃんと書いておこうと思っていたのに、昨日はぼんやりしてしまいPCを開けて書き続けられなかった。でも書き残しておきたい、忘れてしまう前に。詳細を忘れるという加齢の現象がむしろ今は書く原動力になっている。
朝の気分が1日を決めるとわかってたのに、なぜか朝の時間に譲渡していただいた団体でフリコを保護後に預かってくれていた預かりお母さんと、団体の代表さん、そして団体への元気報告に使っていたドコノコというほぼ日が運営しているアプリでいつもよくしてくださっていた皆さんへ悲しい報告をする。預かりお母さんとのやりとりで彼女の純粋な動物愛に溢れる優しいお人柄にグッと来て、またかわいいフリコのいろんなことを思い出し涙する。しかしながら、こんなにすぐにする必要のなかったことをするとか、余程トチ狂っているのだろうと後からずっしり自覚した。
触覚、嗅覚、聴覚、視覚。味覚以外の全感覚でフリコを感じて生活していたこの7年間。北海道の胆振東部地震、コロナ禍となかなかない歴史に残るとても濃い時間を共に生き延びて、時に不安で手を伸ばすと必ずそこにはふわふわのポンやりした表情のフリコがいてくれて、その度にその毛に顔を埋めて思い切りフリコのポップコーンみたいな匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。すると不思議とすーっと胸を圧迫していたものが下に降りて、安心できた。そんなふうに暮らしていたせいか、眠っている時も起きている時も息をするたびに「あたり前にそこにいるはずのフリコ」という状況から無理に抜け出すことを日々のすべてのルーティンの中でのフリコの不在確認を通して強いられている感じさえする。
あの日から、横隔膜から胃のあたり全体が痛い。鈍痛が寝ても覚めてもある。
みぞおちに大きなキングコングからアッパーパンチを3日前におみまいされたような鈍い痛み。
家族4人いると4様のフラの死を受け入れる方法があることに気づく。
お母さんだから、たくさん一緒にいたから、一番懐いていたから‥とか、そんなの関係ないんだなあとつくづく思う。
自分で自制してドラマティックにならない様にしなきゃと思う。大切な家族を亡くして、それを惜しんだり、寂しく思ったり、故犬をしる人と思い出話しをして時に笑ったりする期間をたっぷりと過ごすのは当たり前で大切なこと。でも、それがもし過剰に何年にも渡ってドラマティックが収まらないのならば、他の別の癒した方がいい何かがあると先代の時の経験からも自戒のために書き残しておく。
まだまだ早いしする必要なんかないんだけど、ほんの少しずつ、特にここ1年半くらいの病気のサポートのために買ったものだけを片付ける。オムツ、お尻拭き、転倒防止の滑り止めや転倒しやすい場所まわりのクッション材、元気で苦しくなくて、いつも楽しそうなポンやりしたフリコの思い出だけをとっておきたいと思う。本人もそれを望んでいると思うし。
悲しみを増幅させることのなかに、遺品の片づけがあるんだなあと少しだけでも片付けた後のなんとも言えない悲しい気持ちからおもう。そう考えると生前にある程度の整理を自分が責任を持ってするってことは残された家族の悼みを軽くしてあげられることでもあるんだなあとプチシニアのわたしの脳内備忘録に刻む。
生活の中に刻まれていたフリコのためのもの、ここ数ヶ月で急に症状が進んだのを心配して少しでも精気を取り戻すためにと赤身の良い部位の牛肉をオヤツで小さく切ってあげていたものが冷蔵後から出て来たり、そうかと思えば、亡くなった夜に亡骸を冷やすのに買いすぎた氷の袋が冷凍庫から出て来たりして、その度に胃をえぐられるような気持ちになる。
ああ、これはフリがまだ生きていた時に買ったものだ。
ああ、これは身体にいいと聞いていてフリに飲ませていた水。
ああ、これは、ああ、これはと、生活のなかに組み込まれたフリコのためのひとつひとつが多いことといったら!
いつの間にか自分よりも「まずはフリコ」になってたんじゃないかと思うくらいだ。そんなフリコ馬鹿になっていたわたしに天は罰を与えたんじゃないか?など
まあまあ書き始めると呆れてくるが、恥ずかしながらこれが事実なんです。
ありがとうございます(*Ü*)*.¸¸♪