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実朝の花押

「鎌倉殿の13人」、今週の第35回「苦い盃」は、相変わらずに楽しませてくれた。来週への展開に、時政が実朝に向かい、「花押をいただきたい」と言って、下文を騙し取るという件があった。いかにもドラマチックなものだった。

ここにまた花押がクローズアップされた。思わず実朝の花押とはどんなものだったのかと惹かれ、二、三調べてみた。

北条の諸代執権の花押を調べたとき、頼りにしていたのは、東京大学史料編纂所が製作した「花押データベース」だった。同じデータベースはいまも公開されてはいる。しかし、どうやら更新を経て再公開の途中かなにかの理由により、過去利用していた北条関連の花押も、また源実朝の花押も、いっさい収録されなくなった。はたしてどうなったのか、すぐには答えが分からない。

手元に関連の参考書などはなく、オンラインリソースにもっぱら頼っているが、あれこれと調べてみても、たとえば国立歴史民俗博物館所蔵の『聆涛閣集古帖』がデジタル公開されていて、その中の一葉には実朝の花押が含まれている。ただ、形が分かる程度で、ここの読みには耐えない。

そこでやむをえずもうすこし後世に纏められた資料に目を転じて見ることにした。花押への関心はどの時代においても根強く存在し、参考になるものは多い。その中で、『花押藪』(丸山可澄編、元禄三年刊)が目に止まった。国文学研究資料館所蔵で、デジタル公開されている。その巻一には実朝の花押が収録されている。(十五丁表

同時代の文献に残されたオリジナルものにはほど遠く、代わりに江戸の知識人が手を加え、その書写の過程を分かりやすく示してくれたものだと考えるべきものだ。この『花押藪』の解読をさらに砕いて示すものならば、およそつぎのようなものだろうか。手が加えられた分、花押の書き方を理解するにはかえってほどよいヒントだと思われる。

これをじっと眺め、じっさいに手を動かして書いてみすぐ分かるものだが、けっして簡単に書けるものではない。実朝本人にしても、厳しく訓練を受けてようやく書けるようになったに違いない。ちなみに、ドラマが描いた平賀朝雅讒言の一件は、元久二年(1205)の出来事であり、建久三年(1192)生まれの実朝は、数えてわずか14歳だった。たいしたものだと言わなければならない。

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