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杉山山中の物語

今週も大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しんだ。45分の放送の終わりに流れる「紀行」を眺めて、「椙山(杉山)」、「しとどの窟」などの地名が連なり、いろいろなことを思い出された。

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さまざまな形で語られてきた、鎌倉時代らしい奇跡や虚構が混ぜ合う物語、ただこれを描く画像資料はほとんど残らず、ここでは江戸の読本『源平盛衰記圖會』(寛政六年1794刊)からこの場面を借りてここに載せよう。画像に添えられたタイトルは、「兵衛佐頼朝石橋山合戦伏木隠」。「伏木」をもって不思議とする。振り仮名がなければすぐには思いつかなかった。

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石橋合戦のあとの頼朝の逃避行は、大学院生時代の勉強のころ、個人的には大きなキーワードだった。あのころ、博士課程の学生としては、学会発表も研究会参加もほとんど一切なく、記憶では自分のテーマを持ち出して議論するようなゼミさえなかった。はっきりした義務は、年度終わりに提出する50枚程度の研究報告である。研究テーマも、それへのアプローチもすべて自分一人の責任であり、クラスメートも研究方向がそれぞれに異なり、言葉通りの一人での苦闘だった。

その中で出会ったのは、『源平盛衰記』におけるこの件の記述である。詳しく言えば、そこに記された中国説話。ほとんどなんの必然性も、関連性もないまま中国の話が登場し、そのテーマは親孝行、しかしその内容はあまりにも強烈、衝撃的で理不尽、自分がもっていた常識からはとことん離れて、ほとんど理解不可能だった。

関連するのは同二十巻に収録された二つの章段。頼朝に付いていた武士の一人は公藤介茂光。急所を射られて瀕死になり、傍にいる息子の狩野五郎親光に自分の命を絶てるように命じる。首が敵の手に陥ることを避けて武士の名誉を守るとの思いだった。そしてこのような行動は親への「孝養」だったと茂光が説く。(「公藤介自害事」)この茂光の教えに引かれて、続いて中国の親孝行の話として二人の人物の事績が語られる。その一人は荊保という男だ。父親とともに盗みに出て、追われるはめになると、逃げられそうにない父親の首を斬って持ち帰った。ここの場合、父から命じることもなく、あくまでも息子の荊保が一人で決めて掛かった行動だとされた。(「楚効荊保事」)

上記の物語は、ウェブサイト「菊池真一研究室」に『源平盛衰記』の全文が収録されているので簡単に確認できる。煩雑を避けてここではあえて引用しない。

中国の話は、中世の物語になるとここまで変容したとは、当時の自分にとってただの驚きだった。そして、その背後に隠された理由などを見出そうと懸命だった。限られた読書のすえ、たどり着いた結論の一つは、仏教の教えとの混同だった。「孝行」と「孝養」。前者は親の長生きを最大の目標とし、子供がそのためにすべてを捧げるべきだと説き、対して後者は亡くなった親を忘れないであの世で苦難を経験しないように菩提を弔うものだと諭す。親に死をもたらすことはけっして視野に入れない中国の儒教の考え、親の死を一つの天命として認識する仏教の教えがここで一つに混じり込んだのだったと一つの答えを考え出したのだった。

以上の内容は、博士課程の二年目の研究報告の骨子となった。同じ年の秋に「杉山山中の物語--「源平盛衰記」における故事説話の方法をめぐって」と題して研究誌に載せられた。すでに35年も前のこととなった。いま調べてみたら、論文タイトルはCiNiiなどのデータベースに収録されているが、本文はデジタルでのアクセスがまだされていないもようだ。いずれにしても、自分にとっては大きな思い出の一つなのだ。

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