饗応される鑑真
鑑真和上といえば、奈良唐招提寺と、そこに祀られる等身大の漆の座像が思い出される。遠く奈良時代、命をかけて中国から日本に渡り、仏教の教えを広げたその生涯は、日本でも中国でも大事に語り伝えられている。
その鑑真の事績を記したのには、ほぼ同時代に成立した『唐大和上東征伝』のがある。そして、鎌倉時代になり、この「東征伝」を基にして絵巻が制作され、『東征伝絵巻』(五巻、唐招提寺蔵)である。絵巻制作の定番として、基づく本文から一部抄出し、ここの場合はさらに漢文の文章を仮名文章に変えて詞書として、それに従い状況を絵に描き出した。いうまでもなく鑑真の伝記と絵巻の作成との間にはゆうに四百年以上の時間の隔たりがあり、絵に結集したのはあくまでも鎌倉時代の絵師やその読者たちが共通して持ちあわせていたイメージに過ぎず、奈良時代の様子をそっくりそのまま求めることはない。
そのような『東征伝絵巻』には、恭しく設けられた饗宴に座る鑑真の姿があった。われわれ多くが抱いている和上の姿からは少なからずに離れていると言えよう。
饗宴の様子は、巻五第二段に収められている。この段の詞書はすでに失った。「東征伝」に照らし合わせ、難波においてのことと想定され、一席の主人は唐僧崇道だとされる。
鑑真は、正面に向かって座っている。かれの左手にいるのは、和上を日本に迎えてきた普照だろうか。主人側の前に据えられた膳の詳細は隠されて分からないが、饗応を受ける二人の膳の中心は大きな存在感のあるこわ飯である。客の二人の待遇は明らかに異なり、肴の品数も違えば、鑑真の前には二の膳まで据えられている。その目で見れば、鑑真についてきた僧俗の姿の男たちが大勢控えていて、そのかれらには食べ物がまったく用意されていない。さらに、思えば日本にたどり着いた鑑真はすでに失明したはずだが、絵の中からはその様子がいっさい察知できない。
食にかかわる情景は、『東征伝絵巻』はさらにいくつかの場面において描いている。
巻二第二段の一角には、難破して命からがらに荒波から逃れ、岸に上がって飢えを凌いでもがき、やっとのことで食にありつけた男たちの姿があった。詞書にはつぎのように記す。
水粮ともにつきて、飢渇たへがたし。かくて三日をふるに、一人の海郎きたりて、水米をあたふ。これをえていのちをたすく。
もともと絵に見えたのは、「一人」ではなく、食を差し出し、そして水などを担いでくる二人の男なのだ。
いま一例は、病気に倒れた栄叡と、かれを看病する普照である。(巻二第四段)詞書にはつぎとある。
叡、杭州にして病痾にあひて、寝膳をわする。
苦しそうに横になったのは、栄叡に違いない。普照は、同じ袈裟を纏い、顔が隠されたが、栄叡を摩りながら慰める。対して火を囲んだ二人は、なにかと食べ物を作っているところだろう。詞書にあった「寝・膳」という二つの要素をしっかりと限られた絵の空間に取り入れた。
さらにもう一例。巻三第三段は、仏のお告げにより奇跡的に水に辿りつき、命を救われた経緯を記す。
ちいさき岡をすぎて池あり、のむに水はなはだ甘美也。人みなあらそひくみてあきぬ。
鑑真に見守られて僧たちが懸命に水を汲み、飲みつづけるが、一方では地元の信者たちはどこからともなく集まり、食などを担いだり抱えたり、そして頭にいただいたりして持ちよせてくれた。詞書には見られない風景である。
思えば、遠い昔の学生時代、鑑真の名前は、あの中日友好の代名詞のような「一衣帯水」という言葉と同時に、ほぼ仮名を習うのと同時に覚えた。その鑑真和上の姿を絵巻の中で、それも食を通して対面するのは、なんとも感慨深い。