先週に引き続き、拳の話をさらに一題加える。
拳という言葉は、昔の遊びを意味する。今日の暮らしの中で親しまれているのは、同じ拳であっても、じゃんけん。グー、チョキ、パーは、だれでも一度は経験しているはずだ。じじつ、海外にいても、日本語上級生の学生を相手に、ときどき他愛ない順番などを決めたりする時には、学生同士にじゃんけんで争わせることがよくある。そういう場合、若者たちはきまって嬉々とした顔になり、不得意な友達に教えてあげながら真剣に取り掛かり、周りはささやかな日本文化の披露会に早変わりするものだ。そこまでじゃんけんは日本的なものだと思われている。
時を遡れば、江戸のころには、じゃんけんはまだ存在していなかった。その代わり、広く知られたのは、理屈がまったく同じの狐拳(庄屋拳)だった。三つのパターンは、狐、猟師、そして官吏の庄屋、互いの勝ち負けの関係も簡単に推測できる。三つを表現するには、片手ではなくて、体全体を使い、宴会など賑やかな場を盛り上げるには最適だった。これを説明するには、菊川英山の「風流狐拳」がよく引用される。つぎはウィキペディアの「狐拳」に収録されているものだ。ポーズが三つしかないから、どれがどれを表わしているのかは、たとえ答えを知らなくても、眺めていれば自然と分かってくるものだろう。
ただ、浮世絵を見つめ続けると、狐拳はなんとなく伸びやかで優雅なものだと思い込みがちなのだ。理屈は今日のじゃんけんと変わらないなので、それはまずは勝負を競うための遊びなのだ。このことを覚えさせてくれるには、名作映画の中の一つのシーンはきわめて鮮やかだった。
「幕末太陽伝」(1957年)。涙あり笑いありのこの映画において、志士たちが英国公使館の焼打ち決行を拳の勝負で決めるというエピソードを盛り込む。映画は、その様子を再現している。
まずは、さあ始めようと、そのリズムはあくまでも実戦的だ。
これは、両方とも猟師というポーズということだろう。
これは、庄屋対狐、後者の勝ちなのだ。
この映画は、十年まえにデジタル修復され、再上映された。その時の映画予告編には、このシーンが登場した。見逃しがちだが、中身を知っていれば、じつに味わい深い一瞬なのだ。
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