あの時代の空気を刻印した物語。『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦
あまりにも有名な『ビルマの竪琴』という物語。私も大昔に読んだことがあって、素直に感動した記憶があります。竹山道雄は、戦後わずか1年あまりで、ビルマを知らずに空想でビルマを書いたのだそうです。日本軍とイギリスが和解するための物語として、舞台をビルマにしたそうで、本当は中国を舞台にしたかったとのこと。
私は久しぶりに『ビルマの竪琴』を再読したのですが、山の中の風景とか、原住民の様子が台湾と似ているのかな?と思った所がありました。ビルマを知らない竹山道雄が、南国をイメージしたとき参考にしたのが台湾だからだそうです。なるほど。
馬場公彦さんの本は、物語『ビルマの竪琴』と作者の竹山道雄をめぐる戦後精神史をまとめたものです。戦後の冷戦時代、そして、その後の現代まで。どんな風に、『ビルマの竪琴』が受け入れられ、語られてきたのかを探ります。
最初に説明されるのは、徹底的に『ビルマの竪琴』がフィクションなこと。この例えば、お坊さんが竪琴で楽曲を奏でるのは、ビルマの仏教では破戒行為。やってはいけないことなのだそうです。そもそも、ビルマの民族楽器の竪琴に、イギリスの楽曲の和音は奏でられないし、ビルマの仏教では、遺骨収集や墓葬、墓参には執着しない。ビルマ人を素朴な民として描くために、身勝手な理想的仏教像をビルマに押しつけた作品。そして、当時ビルマで強かった反日感情も無視して描いている、などなど。驚きです。
馬場さん曰く、敗戦後かなり間もない時期に、大東亜戦争を素材にした小説を書くこと自体難しかったとか。実際、GHQの検閲でかなりの削除依頼がなされたけれど、児童雑誌の編集長がかなりがんばって雑誌に『ビルマの竪琴』を掲載したそうです。
竹山道雄はドイツ語教師で、戦前にはドイツ留学の経験もありました。でも、ナチスを批判したそうで、社会が何か1つの意見にまとまっていくことを、とてもきらったとか。一高といえば東大への登竜門。自分の学生を戦争に送らなければならず、死亡通知が来るたびに苦しんだとのこと。
そんな竹山道雄にとって、戦争に負けたらいきなり世の中が変わったことは許せなかったと思います。全て、悪いことは日本軍のせいにして運良く帰還した兵士も、現地で亡くなった兵士も全員悪者(=戦場にいかなかった自分たちは悪くない、騙されていた)みたいな世の中は違和感しかない。そういう思いは、理解できます。
だから、亡くなった兵士に慰めの音楽を奏でる、仲間の遺骨を埋葬する水島のような主人公を作り出したのでしょう。児童書なので、子供向けに「首狩り族」の面白おかしい話を入れたりするのも、当時はよく聞いた話だったでしょう。軍隊の話なのに戦闘シーンが出てこないのも、戦争そのものがテーマでないので当然かもしれません。
一方で、馬場さんは、竹山道雄が本当は中国を舞台にした小説にしたかったけれど、日本と中国では共通の歌がなかったので断念した、という部分を重視します。この小説に出てくる歌は、もとがイギリス民謡なんかで、明治以降に日本語の歌詞をつけて歌われ、有名になった「はにゅうの宿」とか「ほたるの光」。
そこには、軍人たちがよく歌った軍歌は出てきません。日本兵側が、主に竹山さんの生徒のような、学歴の高い人たちをイメージして書かれたことが想像できます。彼らと音楽で結びつくのは、イギリス兵。現地で日本軍やイギリス軍に翻弄されたビルマ人ではありません。こういう、馬場さんの指摘は今の私たちには、とても大事だと思います。
馬場さんは、竹山道雄が『ビルマの竪琴』にこめた願いは、戦場と銃後を問わず、生き残った者が戦死者への鎮魂を通して戦争のトラウマから回復することにあったけれど、それは被害地域への視点が欠けていたと指摘します。そして、ビルマは、癒しのための道具にされたと手厳しいです。
『ビルマの竪琴』の物語が、とても強い力をもっているからこそ、日本だけでなく、いろんな国の言葉に翻訳されていることは事実。でも、馬場さんのいうように「戦争というものは、個人のヒューマニズムや良心というものの存在をすり潰し無効にするところに本質がある」。
だからこそ、物語としての力を認めた上で、空想上の物語は、あくまで空想上の物語だと説明しないといけないし、おかしい部分は「おかしい」と言う必要があるのだと思います。
全ての読者を満足させる物語はありません。でも、『ペリリュー 楽園のゲルニカ』みたいに、史実をしっかり調査して、生き残った人たちにも取材して、描かれた良質な物語が増えるとうれしいです。