李克強同志安らかに。あの中国の日々よ
休学してからというものの、どうしても昼頃に起きる毎日が続いている。今日の昼頃起きてスマートフォンを見てみると、やけに多いLINE通知が目立って気になったが、すぐにその答えがわかった。中国の前国務院総理、李克強が急逝したという。68歳、余りにも唐突な最期だった。
李克強は文化大革命終了後、当時働いていた鳳凰県の主席として高考を通過、北京大学法学部でもその才覚を示し、エリート党員として瞬く間に出世していく。90年代以降は彼の経済に関する知見などが高く評価され、温胡体制の時代には次期後継者としての呼び声も高かった。
結局国家主席を射止めたのは反腐敗闘争などで評価を受けた習近平氏。李克強は国務院総理として中国国内の実務方として活動することになる。
しかしそれでも改革開放の継続路線たるリコノミクスは高く評価され続け、中国経済発展の原動力として動き続けた。
それでも、習体制が二期目を迎える頃になると国務院総理の権限が徐々に他の部署などに移され、10年の務めを終えた。晩年は徐々に文化大革命のような時代を迎えつつある中、文化大革命に生まれ、文化大革命2.0の中に没した。
李克強は私が中国という国に興味を持ち、朝鮮のみならず中国の研究を趣向したその時代の国務院総理だった。彼は中国という国が徐々に改革開放の継続から変容しつつある中で、あの改革開放の空気──思想ではなく、実利で中国をよくするというあの時代──を守り続けた最後の砦だったように思う。
前回私は江沢民元主席の逝去を『繁栄の時代に引導を渡した』と評したが、李克強氏の急逝はそれを決定づけるものになるだろう。今後太子党閥の力は益々強まり、上海閥や団派は不遇の長い時を過ごさなければならない。
そして何より李克強の死は、文化大革命への回帰を想像させる今の中国にとって、数少ないセーフティの損失だろう。
江沢民の墓標は改革開放の終わりに建てられ、李克強の墓標は不透明な時代の入口に建てられた。一つの開明的な時代は終わりを告げ、荒波を往く中国という船の"偉大なる"舵取りの手に羅針盤はもはや存在しない。
李克強の死に触れる北京市民を取材する映像を見て、ふと去年の江沢民逝去時の北京市内を思い出した。今日もあの日みたいに、北京に冷たく痛い風が吹き抜ける。
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