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4.わたしは機械?(1)AIと人間を分けるもの

4-1-1.「ゴースト」という概念

サイボーグ技術とロボット技術は不可分の存在である。そこに高度に発達したAIが加わったとき、サイボーグ=人間とロボット=AIの境界線は揺らぎ始める。

《攻殻機動隊》において最も重要な「AI」である「人形使い」はまさにそれを体現する存在である。「人形使い」は、もともと外務省が政治的工作のために作ったプログラム。ところがネット上であらゆる情報を収集していくうちに、「自我」に目覚めてしまう。そして自らを「AI」ではなく「生命体」だと主張するようになったものである。

その「人形使い」が逃げ込んだ義体(脳の入っていないサイボーグ体)を眼にした主人公・草薙素子は、押井守監督の劇場版『攻殻機動隊』において、相棒のバトーと次のような会話をする。

バトー:「何を考えてる」
素 子:「あの義体、私に似てなかった?」
バトー:「似てねぇよ」
素 子:「顔や骨格だけじゃなくて」
バトー:「なんの話だ?」
素 子:「私みたいな完全に義体化したサイボーグなら誰でも考えるわ。もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか。いや、そもそも初めから〈私〉なんてものは存在しなかったんじゃないかって」
バトー:「お前のチタンの頭蓋骨ん中にゃ脳ミソもあるし、ちゃんと人間扱いだってされてるじゃねぇか」
素 子:「自分の脳を見た人間なんていやしないわ。所詮は周囲の状況で〈私〉らしきものがあると判断しているだけよ」
バトー:「自分のゴーストが信じられないのか」
素 子:「もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら……。その時は何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」
バトー:「くだらねぇ!確かめてみるさ、あの義体の中に何があるのか。自分のゴーストでな」

このセリフは原作では友人との雑談の中で出ており、劇場版での押井の描き方とは随分異なる。

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完全義体化していればその身体はヒューマノイド・ロボットとなんら変わるところはないため、違いは脳かAIかである。しかし、現象面からはAIも人間も区別がつかないとしたら、自分が人間である根拠はなにか、記憶の書き換えですら可能な中で、自分が自分である根拠は何か、この重層的な問いが『攻殻機動隊』、殊に押井の劇場版では提示された。

では、何がAIと人間を分けているか、AIと人間の相違点は何か、ということが問題になる。

『攻殻機動隊』の中では、それは引用したやり取りの中にも登場する「ゴースト」と呼ばれる概念で表される。

AIと人を分ける「ゴースト」とは一体何か?

実は、作中人物は「ゴースト」を当然の共通言語として使用するのみで、一切の説明は行わない。

明確に説明されているのはゴーストを人工的に作り出すことはできないが、すでにあるゴーストをコピーすることは可能だという点だけである。ただし、それはオリジナルのゴーストを大きく損う危険性があるとされている。
作中人物が説明しないので、主として状況から判断するしかない。

第3話「JUNK JUNGLE」や劇場版では、ゴーストハックを仕掛けられた清掃員は、偽の記憶を植え付けられて操られていたし、「JUNK JUNGLE」の班員追跡場面で素子はゴースト侵入キーを使ってトグサの射撃を一瞬コントロールしている。

このことから、ゴーストというのは、自分を自分として成立させている記憶であり、基本的な運動系などを司る意識などを総合した概念ではないかと考えることができる。

作品中で登場人物は説明しないと述べたが、原作では士郎正宗作品特有の欄外注において、士郎自身が「ゴースト」に対する考えをいくつか示している。それを拾いながら、まず士郎正宗の考える「ゴースト」像を整理してみる。

4-1-2. 士郎正宗の「ゴースト」

たとえば、第2話「SUPER SUPARTAN」中の「ゴーストないお人形(ロボット)は悲しいね」という32ページのバトーのセリフに対して、33ページで、

(前略)僕はあらゆる森羅万象にゴーストがあると考える。(マニトウや神道の考え方、多神教)しかしその複雑さや機能、現象として現れる時の物理的制約などからそれを科学的に証明することはできないかもしれない。(中略)念の為書くがゴーストは複雑さや効果において皆同じではない。

と注記している。

72ページでは、トグサの甘い認識に対する素子の心情の補足として、

こーゆう会話があると少佐は『トグサを本庁から引き抜いたのはミスだったかしら?』と思ったりする。犯罪をかぎわける本能(彼女はゴーストのささやきと言っている。分裂症の患者やチャネラーに近い感覚)とゆーのは訓練や経験では見につけられないのではないかと彼女は考えているからだ。

と記している。

「変えることのできない自分の本質的な何か」を指す言葉として「ゴースト」が用いられていると考えることもできるだろう。

98ページで、権利や死について会話をするバトーとフチコマに対しては、

脳死関係の本などを見ているとゴーストがその個体に定着できるかどうかは大脳と視床下部の活動に左右される様だ。一般に魂と呼ばれるもの自体『記憶、化学反応による結果や感情など肉体にセットされているもの及び深く関係しているもの』などを内包しており、かなり大雑把な概念だと思う。

と記している。

更に、メガテク・ボディ社のロボットに「ゴースト」らしきものがあるという分析結果が出たシーンに重要な注記がある。

トグサが素子やバトーに「もしかして皆さん あのロボットにゴーストがあるなんて思ってる?」と問うたのに対して、「ありえるね」と答えた後のバトーの「セルロイドの人形にだって魂が入る事あるんだぜ。ましてや奴は脳医学用の素子(デバイス)をつめこめるだけつめこんでんだ!魂が入ったって不思議はねえさ」というセリフに、士郎は240パージから241ページにかけての注で、

バトーの言うところの「魂」は、先のゴーストという言葉が人体に定着している霊を表すのに対し、もっと霊格の低い構造の単純な(オリオン風に言うと韻度の低い)エネルギーの集合体を表している。精霊とかマニトウとかもう少し格上だと「~の神」とか呼ばれるモノである。人より下(ちょっとした想いの残留や単純な虫霊や動物霊)から上(想像できる限界の大宇宙神霊)まで至る(無限に上下あるのだが)神霊の階層構造も人間の内宇宙と同様に上層支配型ではなく、様々な部分の活動の総体が上層を成すと考えられる。

と記している。

ここでバトーは士郎の注を代弁しているかのように、本気でゴーストが宿っても可笑しくないと考えているようで、「そんなことあるわないだろ」というトグサの反論に「ホントだって!」とむきになって言い返している(トグサを誂っている可能性も非常に大きいが)。

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同様の階層性の考えは、『攻殻機動隊2』の「06 EPILOGUE」において、

霊脳局では、霊は内部・外部に無限の階層構造を持っており、我々が『魂』と呼んでいるものもその一階層に過ぎないと考えている。我々が一般に『自分』と思っている霊も、より上位の管理を受けており全ては連結しているという事らしい

という形で示されている。

これらの士郎正宗の注記から、高橋透(2008)では「士郎的なゴーストの特性は、(一)遍在すること、(二)個体に宿りつつも個体を超え出ること、(三)階層関係を形成していることである」としている。

個体を個体たらしめるものでありながら、人間を人間たらしめるものであり、またすべてのものに存在するという、多義的な概念であることが分かる。これは、霊的な階層性によって統合的に説明される。

この「階層構造」は、どこかユングの「顕在意識・潜在意識・集合的無意識」の構造を思わせるところがある。殊に、電脳空間という意識の結びつく普遍的な場所が存在する『攻殻機動隊』の世界では、それは概念ではなく、文字通りの構造であるのかもしれない。「素子=人形使い」が電脳空間に遍在し、あらゆる存在にリンクが可能であり、結果的にあらゆる存在がその変種たりうるという『攻殻機動隊2』での世界観を考えたとき、「素子=人形使い」はまさに電脳世界の生命の根源となったのではないかという想像すら可能である。

4-1-3. 押井守の「ゴースト」

まず、押井が士郎と異なるのは霊的な考え方の排除である。そのため、ゴーストの人間の根拠性がより強調されている。

そのため、先のバトーの「セルロイドの人形」云々というセリフも意味が異なり、トグサに対する一種の皮肉になっている。そして別のセリフが付け加えられている。

あり得るな。セルロイドの人形に魂が入る事だってあるんだぜ?まして奴は脳医学用のデバイスを詰め込めるだけ詰め込んでるんだ。魂が宿ったって不思議はねぇさ。それに、お前は新米だから知らねぇだろうがな、少佐の義体もメガテクボディ社製なんだ。少佐だけじゃねぇ、俺やイシカワの体の一部、サイトーや他の連中も、メンテナンスやら何やら、部長とお前を除いて9課のほぼ全員があそこのお世話になってるのさ。俺達が憂鬱な顔並べてる訳が少しは分かったかな?トグサ君。

つまり、メガテク・ボディ社製の義体の電脳それ自体がゴーストを宿すとしたら、自分たちメガテク・ボディ社製の義体・電脳を使っている自分たちサイボーグの人間としての根拠が失われるのではないかという危惧がここでは述べられている。エレベーターの中で素子に反論して見せたバトーだが、自分の「ゴースト」の根拠が揺らぐことは認識していたことになる。

では、霊的な階層性を捨て去った押井の描く「ゴースト」とはどんなものであろうか?

高橋透(2008)では、押井守のNHKの番組における立花隆との対談での発言を引きつつ、劇場版2作品で描かれた「押井版ゴースト」について考察している。それによると「押井版ゴースト」の特性は「(一)遍在すること、(二)そして個体をその中に含むネットワークを形成するということからわかるように、個体に宿りつつも個体を超え出ること、(三)他者へとリンクすることである」とする。

特に、他者とのリンクに関しては、押井は「自分がものを考え、社会化されていく中で獲得した第二の肉体」と述べており、記憶と経験と共に形成されたものであることが示されている。押井は本編の中でも、他者の存在が自分を規定する大きな要因であり、自分がつながっているネットワークもまた自分の一部であると、素子に語らせている。

また押井は「サイボーグになったとすれば、犬とつながりたい」とも発言しており、高橋はこれに基づいて、「機械という他者と融合したサイボーグ身体は、犬という、他者ともリンクし合うのであり、これらの他者とネットワークを形成するのである。人間/動物/機械/植物の間のネットワーク的リンク。押井的ゴーストは、他者とのこのような相互的な結びつき」であるとしている。これは、サイボーグの項で取り上げた、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」にも通底する認識であるといえる。

士郎のいう霊的階層性に対して、押井はネットワークという概念を用いているわけだが、どちらも自分の存在の根拠でありながら、他者とつながってものであるという両義性を有していることは共通していると言える。

浅見克彦(2011)は、押井守の劇場版に関して、「ひとまず『ゴースト』は、生まれ持った自分の脳によって形成された固有の意識ないしは記憶、あるいはそれらを成り立たせる根拠とされているように見える」とした上で、第一の「記憶を焦点とした『ゴースト』」、第二の「人間に独自なものとしての『ゴースト』」、第三の「固有性の根拠としての『ゴースト』」という3つの分類を示している。

この矛盾を孕んだ『ゴースト』という概念を、浅見は詳細に論考しているが、ここではその一部、ひとまずの解答だけを紹介する。以下は長くなるが引用である。

素子の懐疑に「信」の次元で応答したバトーの言葉〔引用者注:先に引用したエレベーターのシーンのバトーの最後のセリフ〕をもう一度思い起こしてほしい。まさしくそれは、何の根拠もないものを「信じ」、無いものの存在まで確信させる人間精神の独自性を支えとして、固有性の幻を追い求めていた。個体の固有性なるものは、根拠のない「空虚」にすぎないけれど、それを「信」の次元で求めつづけることができる人間精神の独自性。言い換えれば、第三の「ゴースト」の幻を第二の「ゴースト」の「余剰」の力で築き上げ、「空虚」な固有性の夢にしがみつかずにはいられない人間のリアルな存在が、そこには示されている。これこそが、『攻殻』が問題とする「ゴースト」の実相なんじゃないだろうか。だからこそ物語は、それを一方で人間精神の独自性のありかであると同時に、他方で個体のあるべき固有性の核として、両義的にかつ矛盾を抱えたかたちで描き出さなければならなかったのだ。その意味では、『攻殻』が描き出す「ゴースト」は、いくつかの裂け目と矛盾を抱え込んでいるからこそ有意味なのであり、どうしても謎めいたものであるしかないのだ。物語世界に即して考えるならば、「ゴースト」の謎への解答は、ひとまずこうしたものとなる。
だとすれば、『攻殻』が語りだす「ゴースト」の意味を、一義的なものないしは矛盾のないものとして明快に説明しようとするなら、作品の存在価値と魅力をだいなしにすることになるだろう。なるほど、すでに私たちの意識は、知覚や身体知の点で様々な技術環境と一体化した形で存在し、メディアを介した情報と文化のコミュニケーションに浸されて成り立っている。ウィリアム・J・ミッチェルが言うように、「我繫がる、ゆえに我あり」という文化の現実のなかで、自己の「内」なる根拠に基づく存在の固有性は、夢のまた夢になりつつあるように見える。けれども人間は、こうした現実に包囲されているがゆえに、かえって固有性の夢に強くしがみつこうとするとも言える。固有性としての「ゴースト」が一つの「空虚」にすぎないからこそ、人間精神に独自な「余剰」の力に依拠しながら、それを改めて求めずにはいられない人間の現実──。この私たちの実存の矛盾と裂け目を、物語の整合的体系性に背くこともいとわず、まさに解かれるべき謎として突き付けるがゆえに、『攻殻』は人の心を揺さぶるのだ。ただし『攻殻』の物語は、こうした人間の実存の枠組みを超えて、別の存在の仕方へと歩みだす素子を幻想的に描き出しているのだけれども。

この矛盾に満ちた「ゴースト」をAIが宿したとき、人間は自らの「ゴースト」を信じられなくなってしまう。それが押井版の素子の苦悩の1つであり、実はその「ゴースト」に対する疑念こそが「ゴースト」の根拠性であり、素子と「人形使い」が超越したものだったわけである。

(つづく)

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