【歳時記と落語】秋分
2020年9月22日は秋分の日です。これを中日にした七日間が秋の彼岸ですな。
つまり、秋分は「彼岸の中日」ということになります。
彼岸の入りで紹介した「天王寺詣り」、六代目笑福亭松鶴が有名ですが、その原型は五代目笑福亭松鶴のものです。
死んだ飼い犬の引導鐘を撞いてやりたいという男に連れられて、ご隠居さんが案内役でやってきます。
このご隠居さん、ホンマは彼岸の中日に参るつもりやったのに、男にせっつかれて前日に天王寺へ。
ここでは、噺に沿って実際に天王寺さんをめぐってみることにいたします。
合邦が辻から一心寺、向かいが安井の天神さん(安井神社)、という道順ですので、西からやってきたことになります。そして正面に見えてきますのが、四天王寺の大鳥居です。
「マア立派な鳥居でやすな」
「これを日本三鳥居と言うね」
「ヘエ日本三鳥居てなんでやす」
「大和吉野にあるのが、金の鳥居、芸州安芸の宮島にあるのが楠の鳥居、天王寺石の鳥居とあわせて、これで日本三鳥居と言うね」
(五代目笑福亭松鶴『上方落語100選3』。以下同じ)
この石の鳥居には扁額が掲げられています。片側の縁がないので男はチリトリと言いますが。
ご隠居さんが、中に何と書いてあるかと尋ねますが、男は「四字ずつ書いて、四四の十六字」と答える始末。
「ソレ、釈迦如来、転法輪処、当極楽土、東門中心じゃ」
「何にも分からん、ねこの糞じゃ」
「コレ、いらんことを言いな」
「どなたが書いたんでやす」
「弘法の支え書きと言う」
「鰌汁の中に、入ってあるのん」
「それは、ごんぼのささがきや、誠は、小野道風の自筆やともいう」
今度は視線が下に降りまして、鳥居の根元。カエルが三つ彫ってあると言います。今ではそのような形はまるで分かりません。ちなみに、右側の根元だけ突起が四つついています。その鳥居の根元に左右一対あるのが、通称「ボンボン石」とか「ポンポン石」とか言われるもの。元々は棒でも指したんやないかと思うんですが、穴というか窪みがあります。
「あの石の真ん中に四角な穴がある、石を持ってたたくとぼんぼんと唐金のような音がする、そこへ耳をあてると、わが身寄りの者が、来世で言うてることが、聞こえるのや」
男が聞いてみると、景気のええ呼び込みの声がする。さては死んだ叔父さんが、あの世で手広う商売でもやってるのかと思うたら、実は隣の茶店の呼び込みです。
続いて、ご隠居が一気に境内を紹介します。
「こちらへおいで、これが西の御茶所、納骨堂に太子念仏堂、引声堂、短声堂、見真大師、お乳母さんというて、乳の出ぬ人はここへ詣る、布袋さんが祭ってある、これが天王寺の西門や」
残念ながら、ここで述べられているものの中で、現在もほぼその場所に再建されているのは、見真大師とお乳母さん、そして最後の西門だけです。
そのほかの資料を参考にすると、通りの南に西から「大師堂(恐らく太子念仏堂)」、「茶屋」「引声堂」、北側に「短声堂」と「納骨堂」があったようです。「引声堂」「短声堂」の跡は、四天王寺中学・高等学校の正門の脇にあります。
「引声堂」「短声堂」の跡
納骨堂は現在はもっと南に阿弥陀堂と並んで立っています。
右が今の納骨堂。左は阿弥陀堂
そして、西門をくぐります。
この西門には特徴が有ります。転法輪、噺の中では「輪宝」と呼ばれていますが、これが内の柱に一つずつ、計四つついています。
「天王寺の寺内は天竺の形をとったもの、手洗水がない、水という字が崩して車にしてある、三度回すと、手を洗ろうたも、同然や」
噺の中ではそう説明されていますが、仏の法を説くことをいうので心が清らかになるというのが本来の意です。
そもそも、今では手水は境内の彼方此方にあります。
西門を入りますと、松が植わっています。これが義経鎧掛けの松です。
「コレが、義経の鎧掛松や、コレが経堂、経文ばかりで詰まってあるのや、コレが金堂、この格子の中をのぞいて見なはれ」
「何やチョン髷に結うた親父さんが上下着て座ってますな」
「アレが淡太郎の木像や」
「コレだすな、万さんとこの子取りよったのは」
「ナニが」
「ガタロの極道だすか」
「淡路屋太郎兵衛という、紙屑問屋の旦那や、天王寺が大火で焼けた時、五重の塔を建立しなはった、その木像が残してあるのや」
経堂は現在はありません。西門からまっすぐに西重門へ向かう道の北にあったらしい。
経堂は輪蔵ともいいます。礎石だけは残ってます。その関係かしりまへんが、今は傍に納経所があります。
この次の金堂は、西重門をくぐった先にあります。噺ではすぐそばのように言うてますが、ちょっと離れてます。
今の金堂、というか伽藍は戦後に再建されたもので、江戸時代に再建された伽藍は台風で壊れたり戦災で焼けたりてしまいました。木像も今はありません。ただ、淡路屋太郎兵衛の墓は中央区の正法寺にあります。
で、男はここで、「その五重塔ちゅうのはどこにおまんねん」と尋ねます。当然、金堂のすぐ前にあるわけですが、男はそれを五重の塔とは思わなかったんです。
「なんでこれ五重の塔と言いますね」
「五ツ重なってあるから、五重の塔や」
「ひイふりみイよオ、四ツしかおまへん」
「上にもう一ツあるがな」
「あの蓋とも五重だすか」
「重箱みたいにいいないな」
確かに、重箱というのは二の重やとか三ぼ重やとか言いますが、蓋は数えませんはな。
勿論今の五重の塔は戦後に再建されたもんですが、一番上には仏舎利が納められております。そもそもお寺の塔というのはその為に建てられるもんでっさかいにね。拝観時間中はそこまで登ることができます。
噺の方では、この後に伽藍中の案内、そして南に抜けて、再び境内の散策が始まります。ここが駆け足にポンポンと喋っていくところですが、実際に歩くと結構な距離です。
「こちらへお出で、これが竜の井戸、天王寺の境内は池であった、竜が主、聖徳太子がこの井戸へ符じ込んでしもたので、竜の井という、これが回廊や、南門、仁王さんの立っているのはここや、西に見えるが神子さん、南のお茶所、虎の門、お太子さん、前にあるのは夫婦竹、太子引導鐘、猫の門、左甚五郎作で、大晦日の晩にはこの猫が泣くという、用明殿、指月庵、聖徳太子十六歳のお像、亀井水、経木流す所や、たらりやの橋、俗に巻物の橋、向うに見える小さいお堂が丑さんで、前にあるのが瓢たんの池、東に見えるが東門、内らにあるが釘無堂、こちらが本坊、足形の石鏡の池に、伶人の舞いの台や」
これ、何やその辺をまとめて紹介しているようですが、実際は境内を大体四分の三周ぐらいしてます。
まず、「竜の井戸」ですが、これは今も西重門入ったちょっと北のところにあります。せやから噺はちょっと後にもっどてるのやね。回廊は伽藍の周囲ですわな。
噺ではコレを南へ下がって、南門というてますが伽藍配置では「中門」、現在は「仁王門」というてるところから、伽藍の外へ出てます。今はこの「仁王門」からは出られへんようになってます。
中門(仁王門)。噺では南門と呼んでいる。
万灯院
「紙子さん」というのは「紙子堂」、ほんまは「万灯院」と言います。これは今も同じ所に建ってます。勿論建物は変わってますが。
南の御茶屋、夫婦竹、これは今はありません。御茶屋あたりには今は南休憩所があって、役割をひきついています。「太子引導鐘」は今もありますが、当時とは別の建物です。
「虎の門」は今も大体同じくらいの所にあります。
この虎の門は「お太子さん」つまり「太子堂」の門の一つです。続く「猫の門」もそうです。今は西向きに建っていますが、元々は北向きに建っていました。
猫の門
猫の門の猫
今の「太子殿」(手前)と「太子奥殿」(奥)
「用明殿」「指月庵」は「太子堂」の北、今宝物殿があるあたり、あの辺にあった。お太子さんの像も今はそこにはありません。太子堂に収蔵されています。
これが、大体西門のちょうど反対側あたりです。ここから少し北へ歩きますと、「亀井水」。今「亀井堂」と「亀井不動尊」があるあたりです。
噺では、ここで「たらりやの橋」というのがでてくる。しかし、今はあの辺に橋はありません。昔は亀井堂から東の下の池まで水路があったんです。そこにいくつか橋が架かってたらしい。そのうちの一つが「たらりやの橋」。その橋の石が、宝物殿の南に置かれています。
説明が書かれていますが、これ実は古墳時代の石棺の蓋やったんです。明治時代にそれが分かってから、橋は架け替えられたようです。
「丑さん」というんは「石神堂・牛王尊」です。今は「亀井堂」のすぐ傍にありますが、昔はもうちょっと東側にあったらしい。
その向こうには弁天堂のある「下の池」があります。ここでいう「ひょうたん池」は多分これのことでっしゃろな。
弁財天堂と下の池
その更に向こうにあるのは「東門」です。手前には「伊勢神宮遙拝石」があります。
「内らにあるのが釘無堂」というてますが、これは本坊の塀の内側にあったからなんです。「釘無堂」というのは、ちょうど弁天堂の北にあった本坊の宝庫のことなんです。
本坊は四天王寺の境内の北東の角一帯が全部そうです。今はその庭には入ることができます。
本坊への門
これで、南から北に上がってきて、東を向いて、西向きに折り返してきたことになります。
この後、五代目の噺では、すぐ足形の石に行きますが、六代目の噺では、大鐘楼に回っています。
大鐘楼は、六時堂の北西にあったんです。ここには、当時、世界最大の釣鐘があったんです。1903年(明治36)の第五回内国勧業博覧会に併せて、聖徳太子1300年の御遠忌を記念して鋳造されたもんで、高さ7.8メートル、直径4.8メートルもあったそうです。今も四天王寺さんの南参道に「釣鐘まんじゅう」を製造発売するお店がありますが、この大釣鐘を記念して作られたもんです。釣鐘は太平洋戦争の時に供出されていまいましたが、大鐘楼は「英霊堂」となって残っています。
そこから南に下がりますと、上の池があります。今は「丸池」というてますが、この北西に「仏足石」があります。これが「足形の石」でしょうから、「鏡の池」というのは「丸池」のことでしょう。
ここから東へとって返しますと、「六時礼讃堂」があります。
六時礼讃堂
その前が「伶人の舞いの台」、石舞台です。池の上にかかった橋のようになっています。
この石舞台の所で、男がご隠居さんにおかしなことを聞きます。
「天王寺の蓮池に亀が甲干す、はぜをたべる、引導鐘ごんと撞きや、ホホラノホイてなんだす」
「コレそんなけったいな尋ねかたをしないな、皆がお前の顔を見てるがな、それはここや」
「アア向こうに亀がたんといてます、向処へいきまひょうか」
「向こうへ行かいでも、手を叩くと、皆亀がこちらへ来るがな」
こういう流れですんで、いまも亀がようけいてる石舞台の池が「蓮の池」のこのでっしゃろな。今でも手を叩いたら寄ってくるかどうかはしりまへんが、昼間に甲羅を干している亀の姿はのんびりしててよろしいもんです。
噺ではこのあとで境内の賑やかな様子が入りまして、ご隠居が、
「サアこちらへおいで、これが引導鐘や」
というて、漸く北の引導鐘に辿り着きますが、実際には北の引導鐘、「北鐘堂」は亀の池のすぐ南にあります。
ここは今でもずっと引導鐘を撞いております。
ここで、男は死んだ飼い犬のクロの為に引導鐘を撞いてもらいます。
この北の引導鐘と対をなすように、東側に「太鼓楼」があります。
元々はその名の通り、時刻を知らせる太鼓がありました。再建の時に鐘を据えました。大晦日の除夜の鐘はここで打たれています。
ここまできますと、もう金堂の北あたりですから、ちょっと南にさがると、元の西門の前に出てきます。そうしたら、来たのと逆に帰ったらええんです。上手い具合に境内を一周回って帰れる道順になったあるんです。
残念ながら、度重なる災害や戦災を受けたせいで、四天王寺はその殆どが戦後に再建された建物ばっかりです。しかし、重要な建物は大体元の建物と同じような位置に再建しています。ですから、細かいところは合いませんが、今でも「天王寺詣りを観光ガイドに聞きながら境内を回ることは一応できるんです。
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