4.わたしは機械?(2)身体を捨てて生きられるか
4-2-1.VR世界の誕生
『攻殻機動隊』で「人形使い」と融合後の草薙素子は宇宙空間の託体施設に肉体を保管し、義体にダイブして地上に現れるようになる。またネット上に自らの変種を拡散してもいる。
『アンドリューNDR114』でアンドリューは、電子頭脳を持った人工臓器の集合体であるにもかかわらず、人間として認められた。
こうなると極端なことをいえば、脳が必要であるかどうかもあやしいと言える。
果たして、情報だけの存在も人間なのだろうか?
もっとも、現実問題としてそこまでの技術は存在していない。高度な汎用AIも実現していないし、素子が駆け巡るネット世界も存在していない。
現在はまだ、VR、AR、MR、SRといった現実空間の拡張が精一杯である。
VRは「Virtual Reality」の略で、原義は「実質的には現実と変わらない」という意味である。日本語では「仮想現実」と訳される。映像化された「仮想世界」に、自分が実際にいるような体験ができる技術である。映画の『レディ・プレイヤー1』やラノベ、アニメの《ソード・アート・オンライン》シリーズがこの典型である。
もっとも、映画で描かれているような高度なVRはまだ実現してはいない。
ARは「Augmented Reality」の略で、日本語では「拡張現実」と訳される。現実世界にCGなどで作る情報を加えるものである。アニメ『電脳コイル』の電脳メガネがこの例で、現実的には「ポケモンGO」やなどで用いられている。現在主流となっている技術の一つである。
MRは「Mixed Reality」の略で、日本語では「複合現実」と訳される。仮想世界と現実世界とを重ね合わせる技術であるが、ARとは逆で、主体は仮想世界となる。
SRは「Substitutional Reality」を略したもので「代替現実」と訳される。ヘッドマウントディスプレイを活用して、現実世界を過去の映像に差し替えて映す技術である[8]。
4-2-2.電脳空間~『攻殻機動隊』と「冬のマーケット」~
『攻殻機動隊』でネット空間は、情報が可視化された空間と、仮想現実としての空間が登場している。この描写は『攻殻機動隊2』でビジュアルが洗練され、後年のアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』シリーズなどで、より明確に描かれるようになる。
こうした情報渦巻く仮想空間を一般的に「電脳空間」と呼称するが、これは「サイバーパンク」で確立された世界観、用語である。
「サイバーパンク」という言葉は、1985年にSFのサブジャンルを表す言葉として用いられるようになった。ハードSFやスペースオペラなどに対するカウンターとしての思想を有している。日本でもすぐにこの言葉は大きく取り上げられることとなった。翌年には、SF専門誌『SFマガジン』が11月号で特集を組んだ。文芸総合誌「ユリイカ」も「ディック以後」として1987年12月号で、サイバーパンクを特集した。
典型的なサイバーパンク作品では、人体や意識を機械的あるいは生物工学的に拡張・融合し、それらが過剰に推し進められ、個人や集団がより大規模な構造に取り込まれた社会状況が描かれる。退廃的で暴力的な社会であることが多い。
また、そうした社会状況や体制に対する反発を主題とし、これらを内包する社会・経済・政治などの構造を俯瞰するメタ的な視野を提供する点がサイバーパンク最大の特徴である。
1968年のフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、1974年のジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『接続された女』は、「サイバーパンク」成立以前の作品であるが、先駆的な作品として位置づけられている。
ジャンルを決定付けたのは、ウィリアム・ギブスンの《電脳》三部作であるが、イメージの確立に大きな影響を与えたのは、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作とした映画『ブレードランナー』(1982年)である。
しかし、その世界観・ビジュアルイメージはディックの原作ではなく、フランス人漫画家のメビウスと、映画『エイリアン』などでも知られる脚本家のダン・オバノンが手がけた1975年のグラフィック・ノベル『ロング・トゥモロー』を参考にしたものであった。
借用であったとはいえ『ブレードランナー』のビジュアルイメージは強烈で、麻宮騎亜の『サイレントメビウス』(1988年~)や、コナミ(現、コナミデジタルエンタテインメント)から発売された小島秀夫監督によるアドベンチャーゲーム『スナッチャー』(1988年)など多くの模倣を生んだ。
『攻殻機動隊』もまたその流れの一つである。
この「サイバーパンク」を決定づけたウィリアム・ギブスンの《電脳》三部作の第一作『ニューロマンサー』(1984年)こそ、まさに「電脳空間」という言葉を生んだ作品である。ギブスンの造語である「cyberspace」に翻訳家の黒丸尚が「電脳空間」という訳語を当てたのである。
ギブスンは『ニューロマンサー』の前身となる短編「クローム襲撃」において、コンピュータの作り出す仮想空間である「電脳空間」に「没入(jack in)」して活動する電脳カウボーイたちを描き出した。当時まだVRという言葉はなかった。「virtual reality」という用語が発明されるのは1987年のことである。
頭に脳と直結する電極を埋め込み、サイバースペースデッキと呼ばれる没入装置と接続することで電脳空間へと入り込む。さらに、ある人間の感覚世界に没入する「擬験(simstim=simulated stimuli)」という行為も登場する。擬験はある人間の体験を直接にリアルタイムに追体験するという感覚コンテンツでもある。同じくギブスンの短編「冬のマーケット」(『クローム襲撃』所収)では感覚世界を編集してコンテンツに仕上げる編集技術者が主人公として登場している。
ここで、ギブスンの「冬のマーケット」を少し詳しく見てみよう。
バンクーバーで、電子的に取り出した人の夢を商品にする編集屋をしている「おれ(名はケイシー)」は、エージェントからの電話で、アーティストのリーゼがネットに溶け込んで「死んだ」こと、自分が関わった彼女の作品〈眠りの王たち〉の売り上げが好調なことを知らされる。「おれ」はガラクタ・アーティストのルービンを訪ねる。すると、ルービンはリーゼが「死んだ」ことを知った上で、「だが、電話してくるさ」と言った。
「おれ」とリーゼは、ルービンの家のパーティで出会った。リーゼは外骨格の補綴器具なしでは指先を動かすこともできなかった。その一週間ぐらい前にルービンが、彼女が外骨格のバッテリー切れでグランヴィル・アイランドの道端に倒れているところを見つけ、家に連れ帰って助けたのだった。
その夜、「おれ」はリーゼと、あり合わせの機材を使って意識を直結させる。そして「おれ」はリーゼの「夢(文中では「野心」と表現されている)」のビジョンに圧倒され、涙を流し、敗北感を感じる。
「おれ」は、スタジオを借りて、リーゼの「夢」を取り出し、二週間かけて編集して、スタジオの持ち主マックスに売り込む。そして、「おれ」は三週間かけてリーゼの「夢」のコンテンツである〈眠りの王たち〉の基本作業を終える。
仕上げに向かっていく作業の最中のある明け方、二人だけになったとき、リーゼは「おれ」に、辛く当たってきたことを詫びる。
すべての作業が終わった後、「おれ」は最低の気分で町へ出る。何軒もはしごしたあと、古ぼけた店でリーゼを見つける。そこで、彼女が死につつあることを悟る。
ルービンは、自分の作品の展覧会が開かれるフランクフルトに同行するように「おれ」を誘う――お前には休暇が必要だ。今は必要ないかもしれないが、あの子の次回作を編集するときに必要になる、と。
死んだはずのリーゼがどうやって「おれ」に電話をし、次回作を作るというのか。実はリーゼの肉体は死んだが、その記憶はすべて電子的に記録されているのである。つまりリーゼは「電脳空間」で生きているのである。
この作品中でリーゼは、彼女が先天的な障碍のために自力では身体を全く動かすことができないので、身体を支え、彼女の思い通りに身体を動かすために、所謂パワードスーツのような「外骨格」を用いている。
リーゼは作中において、「おれ」こと「ケイシー」の視点から、次のように描写あるいは説明されている。
はじめて彼女を見かけたとき――彼女はビール専用の冷蔵庫を開けていた。そのなかからもれる光で、頬骨ときつそうな口元が見えたが、それといっしょに手首で黒光りするポリカーボンと、その外骨格(エクソスケルトン)が皮膚とすれあってできたつるつるの傷痕も目についた。
それから二時間後、外骨格(エクソスケルトン)にプログラムされたさの恐ろしくも優雅な動きで、人体と廃物のあいだを縫いながら、おれを追いかけてきた。
リーゼは鉛筆のように細いポリカーボンの補綴器官に支えられて、おれの前に立った。
彼女は外骨格(エクソスケルトン)がないと自力で動けず、その補綴器官は筋電インターフェイスで、彼女の脳に直結している。腕や脚を動かしているのは、一見ひよわなポリカーボンの装具(ブレース)だが、細い手をあやつっているのはもっと微妙なシステム、ガルヴァーニ電気の象眼(インレー)だ。
彼女の身体障害が先天的なものであること。彼女の皮膚にただれがあるのは、完全な無力さのことを考えただけで息がつまって死にそうになるので、外骨格(エクソスケルトン)をけっしてはずそうとしないからであること。
手先は電気刺激で筋肉を収縮させて動かしている。しかも、その動きはある程度プログラムされており、本当の意味で彼女の動きたいように動いているわけではない。そして作中でも描かれているが、電源が切れると彼女は生命の危険に晒されることになる。そういう意味では、リーゼは半ばサイボーグと考えても差支えがないと言えるかもしれない。
このようなパワードスーツとしては、サイバーパンクの先駆的作家と評されるジョン・ヴァーリイの短編集『ブルー・シャンペン』(1986年。邦訳は1994年)の表題作にも、四肢麻痺患者の少女が装着する補綴器具としての外骨格が登場している。
つまり、リーゼにとっては、現実世界は思うように動けない「不自由な世界」であり、「電脳世界」こそが「自由な世界」だった。そうすると、一体どちらが自分にとっての「本当」の世界なのだろう?
リーゼの「死」は「生」の追求でもあったわけである。
この「電脳世界」で生きることを選んだ非凡な女性と、残された(捨てられた)平凡な男という構図は、押井守の『攻殻機動隊』『イノセンス』における草薙素子とバトーの関係に通じるものがある。
4-2-3.ブレイン(マインド)・アップローディング
このように、脳に記憶されたすべてのデータを、コンピュータ上にアップロードしようという概念が「ブレイン・アップローディング」または「マインド・アップローディング」と呼ばれる技術的概念である。つまり、「8マン」や「銀河鉄道999」の機械化人のように、脳そのものをコンピュータで代替しようということであるが、より本質的には、元々の肉体も、肉体の代替物を持つ必要もなく、電脳空間のみで生活することを指す。
グレッグ・イーガン『ディアスポラ』(1997年)では、人類のほとんどが肉体を捨てて、仮想空間でソフトウェア化して生きている世界を描いている。2006年のアニメ『ゼーガペイン』では、致死率98%のウイルスが蔓延し、人類は死を回避するに量子サーバーの中のデータ(幻体)となって生き延びており、容量の関係から一定の期間をくり返し生きているという世界が描かれている。
1995年のR・J・ソウヤー『ターミナルエクスペリメント』では、コピーされた主人公の3つの人格の内のどれかが殺人を犯してしまうという事件が描かれた。
こうした技術は現在純粋にSFの世界に属するものだが、それを実際に追い求めている人たちも存在している。
人工知能研究の世界的権威であり、技術的特異点(シンギュラリティ)の研究でも知られるレイ・カーツワイルは『シンギュラリティは近い』の中で、電子システム上で脳の機能を再現する「全脳エミュレーション」は実際の脳よりも高性能になるといい、2030年代初めにはそのために必要な処理速度と容量を持ったコンピュータと脳のスキャン技術が実現できると記している。そして2045年ごろにはAIが人間を超える「シンギュラリティ」が起こるとしている。
これに対して物理学者のロビン・ハンソンは『全脳エミュレーションの時代(上)(下)』において、カーツワイルの試算には根拠がなく、そのような短期間でシンギュラリティは実現されないとし、少なくとも200年後であるとする。
しかし、それに先立って全脳エミュレーションによる機械知性が誕生(100年以内)するという予測と人の脳をスキャンしてデータ化し、アップロードするという点においては共通している。
ハンソンはこの「全脳エミュレーション」を「EM(エム)」と呼んでいるが、ある人間と同じ記憶や感情を備えたEMは、多くはバーチャル世界でのみ生活し、ごく一部が機械の体を用いて生活すると考えている。
また、ハンソンはEMの生殖活動についても言及しており、それはEM自身のコピーを作る行為だとしている。するとある人間の記憶をベースとしながらも世代を重ねるごとに違った経験を積んだEMが多数誕生することになる。ハンソンはこの集団を「クラン」と名付けている。
ただ、ハンソンはEMのオリジナルは1000人程度の選ばれた人間だろうとも述べている。経済的原理から言えば投資は成果をもたらさなければならないから、EMを作る以上の価値をEMが生み出してくれなくては困るというわけだ。そう考えると、誰もが不老不死を得られる世界は相当な未来になりそうである。
さて、こうした「ブレイン・アップローディング」の概念の前提となっているのは、データ化された人間はやはり人間であるということである。ここでは人間の本質は肉体にはないということが暗黙の内に示されている。
そこでは、『攻殻機動隊』の素子が抱えていた「自分は本当に人間なのか」「自分という人間はそもそも存在していたのか」という悩みはすでに消化されているといっていい。
それはハンソンも述べているソフトウェア化・データ化した人間の繁殖を考えてみるといい。その子どもは、コピーといえども、始めからソフトウェアでありデータであるのだ。特にオリジナルから複数のEMが造られた場合、あるいはオリジナルから1つのEMしか作られなかった場合でもそこから複数のコピーが作られれば3世代目には、それぞれが別の経験をした別の存在からのコピーということになる。そこにオリジナルとの同質性がどこまであるかは大きな疑問である。それはもはや作られた知性、仮にここでは「人形使い」系AIと呼ぶが、それとなんら差異がないとも言えるのではないだろうか。
問題となるのは記憶の同一性と精神的働きのみである。そしてもはや、作られた存在とも殆ど区別する必要がなくなっており、人間か機械かデータかどうかということは、意味を持たなくなっている。
しかし、現代の人間の持つ「人間性」というものが、その「肉体性」と不可分なものであるのならば、電子の世界を生きる「人間」は現代の人間とは全く異なった「人間性」を有した存在であるのかもしれない。
私達はそうした存在を「人間」だとは認識できないかもしれないが、彼らもまた私達を「人間」だとは認識できないかもしれない。仮に認識できたとしても、理解し合えないのではないだろうか。
(完)
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