3.アンドロイドはピノキオの夢を見るか(2)機械はどこまで人間か
3-2-1.ピノキオ神話
一般的に、ヒューマノイド・ロボットという人の形をしたものが、人のように考えて行動するようになった場合、人間とヒューマノイドの境界線が問題となるのは、当然のことと言える。それが、『攻殻機動隊』においては、人間の側の人間であることへの疑問という形で表出していた。
しかし、より一般的には、作品中において、ヒューマノイド・ロボットの側の「人間という存在への希求」という形で示される。この問いかけの最も有名なさきがけがディズニー版『ピノキオ』(1940年)であろう。
子供のいないおもちゃ職人のゼペットじいいさんはあやつり人形のピノキオをつくり、「自分の子供になりますように」と星に願う。すると、皆が寝静まった頃に、ブルー・フェアリーが現れてピノキオに生命を授け、その様子を見ていたコオロギのジミニー・クリケットに良心役を命じる。そしてピノキオに「勇気を持って正直で優しい性格になれば人間になれる」と告げる。
様々な冒険を経て成長し、ピノキオが家に帰るとゼペットじいさんの姿がない。実はピノキオを探しに出てクジラのモンストロに飲み込まれていたのだ。ピノキオとジミニーはゼペットを救出に向かう。モンストロの体内からゼペットじいさんと脱出に成功するが、イカダが壊れ、ピノキオはゼペットじいさんを庇って必死に岩場まで泳ぐ。ゼペットじいさんとジミニーたちは生還するが、彼らを庇ったピノキオは息絶えてしまう。
死んでしまったピノキオの前に、ブルー・フェアリーが現れ、ピノキオを本当の人間の子供として生き返らせる。
このモチーフは、SFでは何度も繰り返されてきた。
日本発のTVアニメとしても知られる手塚治虫の『鉄腕アトム』もまたピノキオをモチーフにしている。初代のアトム声優である清水マリは、「なら国際映画祭2016」内のプログラム『鉄腕アトム 宇宙の勇者』星空上映会の挨拶で次のように述べている。
アトムはピノキオをイメージしていて、わたしが中学生の時にピノキオ役をやっていたからわたしがやることになったんです。男の子でもない、女の子でもない、中間的な金属的な声というのが、手塚先生のイメージだったみたいですね
アトムは天馬博士が死んだ息子であるトビオの身代わりとして作り上げたロボットである。しかし、成長しないアトムを嫌った天馬博士によってサーカスに売られてしまい、御茶ノ水博士に救われるのである。
石ノ森章太郎の『人造人間キカイダー』(1972年)も『ピノキオ』をモチーフにしている。
キカイダーには「正しい心」とも言うべき「良心回路(ジェミニィ)」が搭載されており、基本的には悪事を働くことはできないが、「良心回路」が不完全なため、敵であるギルの笛で操られて悪事を犯すこともあり、悪と正義の狭間で苦悩することになる。物語終盤にギル・ハカイダーに捕らえられた際に「服従回路(イエッサー)」を組み込まれたことで人間と同じ善悪両方の「心」を持つようになり、嘘をつくことが可能になる。その嘘で窮地を脱し、同じく「服従回路」を組み込まれた、「良心回路」を持たない仲間とハカイダーを倒す。しかし、明確に善悪の「心」を持ったことでより深い苦しみを抱えて、一人どこかへ去っていくのである。
翌年には石ノ森原作で『ロボット刑事』のTVと漫画がスタートする。石ノ森は『人造人間キカイダー』に続いて、機械である主人公が人間に近づこうとすることで、人間の本質とは何かを描き出そうとした。
主人公Kは知性と感情を持ち、詩を書くこともできる。その姿は後述するアシモフの「バイセンテニアル・マン」、それを原作とするSF映画『アンドリューNDR114』の主人公アンドリューを先取りするかのようですらある。ただし、『ロボット刑事』のKは原作では、自らの機械の体を恥じるかのようにコートすら脱ごうとしないと、始めから更に人間くさく描かれている(実はKは外見こそロボットだが、電子頭脳ではなく製作者・霧島玲子の母親の脳細胞から増殖させた人造脳が搭載されている)。
イギリスのSF作家ブライアン・オールディスの「スーパートイズ」(1969年)を原作とする、スティーヴン・スピルバーグ監督の『A.I.』(2001年)は、正に未来版の「ピノキオ」である。
『A.I.』の主人公デイビッドは、人間と同じ愛情を持つ少年型ロボットであり、見かけ上人間の少年とは全く見分けがつかない。不治の病であるモニカの息子の身代わりであるため、モニカを母親として愛するように作られた。幾多の失敗をしながら、放浪中にセックス・ロボットのジゴロ・ジョーと出会い共に旅を続ける。自分を造った会社に向かい、自身と同じロボットが無数にある事に大きなショックを受ける。その後、海底で「ブルー・フェアリー」を発見、願いをかなえるという彼女に「人間にしてもらう」ことを願いしながら機能を停止。それから2000年後、ロボットたちによって人類再生の為に再起動され、クローンとして復活したモニカと最後の1日を楽しみ、共に眠りに落ちた。
3-2-2. アンドリューNDR114
アイザック・アシモフの「バイセンテニアル・マン」(1976年)をロバート・シルバーバーグが1993年に長編化、それを原作としたクリス・コロンバス監督の『アンドリューNDR114』(1999年)では、『オズの魔法使い』的なモチーフが加わっている。
アンドリューは、始めはまるでブリキのロボットのような外見をしているのだ。「温かいハートが無い」ことを嘆いていたブリキの木こりのような。
そして、この時点では人間への希求は現れてこない。
マーティン一家が購入したアンドリューは創造性を持っていた。あるとき、次女アマンダの宝物であるガラスの馬を壊してしまう。そのかわりに浜辺の流木から木彫りの馬を作ってアマンダに許しを請う。主人であるリチャードはその創造性に興味を覚え、技術だけでなく人間やジョークについても教え、アンドリューの木工細工が売れた報酬をアンドリュー名義の銀行口座に蓄えさせた。このマーティンの行動から、アンドリューの人間への道程が開かれることとなる。
月日は流れ、アンドリューは「自由」にあこがれ、リチャードに自分自身を買い取りたいと申し出る。リチャードは拒否し、「出たければ勝手に出て行くがいい、おまえは自由だ」と告げる。その言葉に失望しつつ、アンドリューはマーティン家の近くに一人で暮らし始める。そしてリチャードが亡くなると、アンドリューは、自分と同じNDR型のロボットを探す旅に出る。
数十年後、アンドリューは女性型NDRのガラテアと、その主人バーンズと出会う。バーンズはアンドロイドの外見を人間のようにするための研究をしていた。アンドリューは研究資金と設計アイディアをバーンズに提供し、更に自分自身を実験台にすることで、人間そっくりのボディを手に入れる。
アンドリューは、マーティン家に戻り、アマンダそっくりの孫娘ポーシャと出会う。やがて2人は愛し合うようになるが、人類法廷は2人の結婚を法的に認めてはくれなかった。
バーンズの研究は大きな成果を結び、人工臓器の第一人者となっていた。アンドリューと同じ人工臓器を用いている人間も多い。脳以外はアンドリューと大差がないという人間すら存在した。そんな中、アンドリューは「なぜ自分が人間でないのか」と訴えるが、法廷はそれを退ける。
長い人生に疲れたポーシャが自らの死を決意すると、アンドリューも「人間」になるために不死性を捨てることを決める。法廷で「あなたのどこが人間なのか」と問われ、アンドリューは自分の胸を指して「ここです」と答える。
判決の下る日、アンドリューとポーシャは共にベッドに横になって判決を待った。法廷がアンドリューを「史上初めて200年生きたことが確かな人間である」と認めると、アンドリューは活動を停止した。ポーシャも看護婦として付き添っていたガラテアに、生命維持装置を停止するように求め、アンドリューの手をとり、息を引き取った。
アンドリューの「人間化」の過程は、実は外見的なモチーフと思われる「ブリキの木こり」の境遇を逆再生しているような格好である。言ってみれば『アンドリューNDR114』は、「ブリキの木こり」の救済の物語のようなものだということができる。
法廷でのどこが人間なのかという問いに、自分の胸を指し示したのは、「温かいハートが無い」ことを嘆いていた「ブリキの木こり」のような外見であったアンドリューが「心」を持ったこと、「ブリキの木こり」から見れば「取り戻している」ことを示しているのではないかと思える。
そもそも「オズの魔法使い」の「ブリキの木こり」は、元々は普通の人間の木こりであったのだ。恋人と引き裂かれた際に、悪い魔女に呪いをかけられ、木を切る度に、斧のコントロールを失い、自分自身を傷つけることになってしまった。そのため、友人の鍛冶屋に頼んで、手を失うと手を、脚を失うと脚を、ブリキ製のパーツに取り替えていったのだ。
そうして、生身の部分が頭部と胴体だけとなり、ある日ついに「頭」を切り落としてしまい、頭部もブリキ製になってしまう。最後には胴体もブリキに替えてしまい、「温かいハート」を失った「ブリキの木こり」となり、同時に恋人への愛も忘れてしまった。そして、実は物語の中ではついに救済を得られていない。
アンドリューは最初に心を、そしてその後に「生身」のパーツを手に入れていく、そして物語の中で、アンドリューはついに人間として認められ、愛した女性と最後を迎えた。正に「ブリキの木こり」を逆再生したような「人生」である。
さて、改めてアンドリューというキャラクター自身について考えてみると、「ピノキオ」は正に肉体を持った人間となったのに対して、アンドリューは「人間」と認められてとはいえ、人工臓器でくみ上げられた肉体を持ったアンドロイドであり、コンピュータに搭載された超高度AIがその本体である。これは脳そのものの存在が人間であることを規定するものではないということになる。人間性は別のところにある。あたかも「ブリキの木こり」の心が頭ではなく胴体に宿っていたように。
言い換えれば、電子的な信号がコンピュータの中を行きかうことで生まれる意識もまた人間として認められるということであり、『攻殻機動隊』に照らして言えば、アンドリューは「ゴースト」を獲得した存在ということになる。しかし、ここで注目しなければいけないのは、人間であることと不死であることが相反することとされている点である。アンドリューが人間であるためには、「死」を迎えなければいけなかった。
『A.I.』のデイビッドもまた、最後には機能停止をしなければならなかった。
これは『攻殻機動隊』において「人形使い」が、完全な生命体になるために、「揺らぎ」とともに「破局の回避策としての死」を求めたことと、軌を一にするかもしれない。
3-2-3. 人間の心と機械の誇り
機械が人間であり生命体であることを求めるとき、そこにはよき心が前提としてあり、その上で個性や揺らぎや、不死性の放棄ということが浮かび上がってくる。あたかも、それが生命の本質であるかのように。
一方で、手塚や石ノ森は主人公をついに人間としては描かなかった。
『アトム』では人間にあこがれるが、人間のような感情を手に入れた際には恐怖で戦うことができなくなっており、すぐに装置が破壊されている。
『人造人間キカイダー』では、人間の本質は善と悪との両方の心であり、嘘をつくことである(ロボットはアシモフの「ロボット三原則」によって嘘をつけない)という実に皮肉な図式が提示されており、同じく石ノ森の漫画『イナズマン』のエピソード「ギターをもった少年」に登場した際に、イナズマンによって「服従回路」を破壊されて、元の状態に戻っている。
『ロボット刑事』では、Kは最終的に、憧れである人間の心が生み出す悪と戦うため、人間のようにではなく、機械の誇りを持って機械らしく生きることが提示されている。
機械が人間に近づいたとき、日本のSF漫画が示したのは、人間の弱さや身勝手さや悪の心だった。そして機械は、それを否定する気高いものとして立ち現れている。
(つづく)
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