【歳時記と落語】大晦日
旧暦は12月30日までで、次は元日ですが、昔は数え年でっさかいに、皆この正月一日に歳をとった。数えの61、十干十二支が一回りして生まれ年とおんなじになりますと、「還暦」となります。今は60で還暦ですが、生まれた時は「0歳」なんでそうなります。昔は生まれた時からその年の大晦日までが「1歳」でしたから、61です。
この還暦の話は「亀佐」にも出てきますが、サゲになっているのが「帯久」です。最近はそれが分かりにくいので、サゲを変えている噺家さんもおられるようです。
大阪松屋町近くに瓦屋町というところがございます。この三丁目に和泉屋与兵衛という評判の呉服屋がございました。一方、北の二丁目にある帯屋久七という呉服屋、なんとのう陰気であんまりはやっておりません。「売れず屋」などと呼ばれたりしております。
ある年の12月のかかり、帯屋が和泉屋に20両という金を借りに参ります。和泉屋は証文も取らず貸してやります。すると、帯屋は20日ほどで返しにきた。春の中払いの前に30両、六月の節季前に50両を借りますが、やっぱり20日ほどで返しに来る。そして秋の中払いの前に百両を借りに来ます。ところが今度はなかなか返しに来ない。いよいよ大晦日という時になって返しに来ます。和泉屋もごった返しております、与兵衛は帳面に印を入れたところで、客の侍が帰るというので、見送りに席を立ちます。帯屋は目の前の百両を懐に入れて帰ってしまう。
これから帯屋は商売繁盛、一方の和泉屋は年が明けた早々に一人娘と女房が続けて死んでしまう。蔵屋敷相手の商売でトチリが出て、揉み消してもらうために金を使うはめになる。子飼いの二番番頭が集めた金を持って逃げてしまう。おまけに、「瓦屋町焼け」という大火におうて、家はもとより屋財家財すっくり焼けてしまう。
五丁目に、和泉屋から暖簾分け別家した武平というのおります。いっぺんしくじって日傭取りをしておりますが、これが与兵衛を連れて帰りますが、与兵衛はどっと心労で床に付いてしまう。十年というもの、武平がようよう養いまして、やっと床払いとなります。
与兵衛は、武平にもう一度和泉屋の暖簾を上げてもらおうと、帯屋久七に金を借りにまいりますが、貸してくれないばかりか悪態を付いて追い出されてします。帯屋の裏の松で首をくくろうとした与兵衛ですが、思い余って放火をしようとして捕まってしまいます。
町役は和泉屋のことは聞き及んでおりますし、帯屋のあくどいやりようは気に食わんというので、不問にした上5両の金を渡して返してやります。しかし、帯屋の方は、これが元で百両の件が露見してはいかんと、お上へ訴えでます。
奉行所の方で調べてみますと、和泉屋のことを悪ういうもんは誰もおりませんが、帯屋の方は悪い評判ばっかりです。
そこで、奉行さま、
「目の前に百両の金がある。ああ、こりゃわしがこのまま帰ったんでは用心が悪い。用心悪し、と思うて、その方が親切からその百両を懐へ入れて、改めて和泉屋に返すつもりで持ち帰り、そのまま失念しておったといぅことはないか?」
とお尋ねになりますが、帯屋はあくまでも白を切ります。すると御奉行は、帯屋の人指し指と中指に紙を巻いて糊でとめ、その封締めへ判こを押します。
「忘れたものを思い出すマジナイじゃ。そのマジナイをしたからには必ず思い出すであろう。うちに帰ってよく考えてみるがよい。ただし、それには奉行の印が捺してある、ゆえなくしてその封印を破るときには、その方、家は撤収、所払い申し付ける」
帯久は指が使えないのでにぎり飯しか食えず、風呂は入れん、あぶのうて碌に寝ることもできん。四、五日すると根をあげまして、持ち帰って忘れましたと申し出てて、百両を返します。
ところがお奉行、
「これは元金じゃな。利子はいかがいたした?」
十年分の利息百両を支払うように命じます。番頭が50両だけ持ってきておりましたので、残り50両。帯屋は年1両でと申し出まして、書類ができ、一同が署名、捺印をいたします。
いよいよ次は和泉屋のお裁きです。
「和泉屋与兵衛、放火の罪は逃れ得んぞ。不憫ながらその方、火あぶりの刑に行う」
これを聞いて帯屋久七、飛び上がって喜んだ。ところが、
「その刑は、残金五十両支払い終わりたる時点において、これを行うぞ」
驚いた帯屋、それなら今すぐ50両出すと言いだしまして、お奉行にきつくお叱りをうけます。
「裁きはこれまで。一同の者、立ちませ。こりゃ、和泉屋与兵衛、ところでその方、何歳に相なる?」
「六十一でございます」
「六十一とは本卦じゃな」
「いえ、今は別家で居候でございます」
噺の中のお奉行さま、大阪では松平大隅守、東京では大岡越前守でやられます。これは、明治末に「文藝倶楽部」に載った二代目桂文枝(のち文左衛門)の「名奉行」の速記をもとに、六代目三遊亭円生が東京風に改作したときに改めたもんです。噺の中の火事を享保6年(1721)の大火にして、同時代の大岡越前守のお裁きとしたんです。
しかし、実はこの噺にそっくりの大岡政談が既にあったんです。『大岡仁政録』巻六に収められた「麹町呉服屋一件」がそれです。
さて、大阪の噺でのお奉行・松平大隅守信敏は、文久3年(1863)から慶応3年(1897)まで大坂西町奉行をおつとめです。しかし、それは宝暦六年(1756)七月晦日の「瓦屋町焼け(瓦屋橋出火)」は時代が古すぎます。米朝師匠もその点は指摘されています。リアリティを持たせるために実際の火事を持ち出したというのはよくいわれるんですが、他にも大火はようけあります。それだけでは、なぜわざわざ「瓦屋町焼け」なのかという説明にはなりません。
「瓦屋町焼け(瓦屋橋出火)」の宝暦六年(1756)から、十年たつと明和3年(1766)です。この時、大坂東町奉行は鵜殿出雲守長逵(宝暦12.2.15~明和5.3.16)、西町奉行は曲淵甲斐守景漸(明和2.12.7~明和6.8.15)です。
そう、曲淵甲斐守といえば、「鹿政談」にも登場する名奉行。大坂西町奉行のあと、江戸北町奉行に転じています(~天明7.6.1)。残念ながら、奈良奉行を務めた事実はないんですが。
ここで、円生が後に発見したというもう一つの原話に登場していただきます。これの存在によって、円生は「お奉行は誰でもいい」という自信をもったんやそうです。
その資料というのが、『明和雑記』巻五の「立売堀土橋辺老女の事」です。(漢字は新字体に、おどり字、変体仮名は、通常の仮名に改めた。句読点は便宜付け加えた。)
現在、「帯久」の原話のひとつとされているこの話では、お奉行は、先ほどふれました「西町奉行・曲淵甲斐守」です。これから考えると、そもそも想定されていたお奉行は曲淵甲斐守で、「瓦屋町焼け」から十年ということで、それを暗に示しているのではないかと思います。
「鹿政談」でも噺の中のお奉行さまを、幕末の奈良奉行・川路聖謨でやるパターンがあります。おそらくは、噺が練り上げられている中で、聴衆になじみのある近い時代の名奉行に変えられたのでしょう。
この「帯久」で、お奉行が「松平大隅守」なのも、そういう例やないかと思います。
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