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【歳時記と落語】手塚治虫

11月3日は、文化の日です。1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日に由来するのはご存知の通りです。しかし、これは偶々公布がこの日になったんやないんです。戦前までは11月3日は明治節、明治時代は天長節でした。つまり天皇誕生日やったんですな。それにあわせて、憲法を公布して祝日にしたんです。

もう一つ、大阪もんが忘れてはならんのが、この日が手塚治虫先生の誕生日やということ。

お生まれは今の豊中市。その後宝塚市に引っ越されますが、小学校は大阪池田市にあった池田師範学校附属小学校に通ってはります。今の大阪教育大学附属池田小学校ですな。

「マンガの神様」といわれる手塚先生が、宝塚歌劇のファンやったことはよう知られてますが、落語とも関わりが深いんです。

立川談志師匠とは親交が深く、談志師匠は「ジャングル大帝」に声優として出演もされています。元々は談志師匠が手塚先生のファンやったことから始まった付き合いやったようですが、漫画家・手塚治虫の根っこのところに落語が関わっているんです。このことは手塚先生ご自身が「ぼくと落語」というエッセイ(「談志ひとり会パンフレット1988年2月9日。のち『手塚治虫エッセイ集』第6巻所収)に書いておられます。

昭和21年には、二代目桂春團治師匠の依頼で、戎橋小劇場での催し物のポスターを描いておられます。当時、既に『小国民新聞(毎日小学生新聞)』で連載をしておられましたが、まだまだ知る人ぞ知るというところやったでしょう。人伝に春團治師匠が、マンガを書いている学生がおるというのを聞いて、依頼されはったらしい。出し物は「二人羽織」「粗忽の釘」と「明烏」の落語芝居やったそうです。

当時、手塚先生は宝塚に、春團治師匠は清荒神にお住まいやったそうで、「落語家にならへんか」と誘われて、何度か手塚先生は師匠のお宅にお邪魔したようです。

それだけやのうて、クラスメートの前、そして田河水泡氏のパーティーでも落語を披露したこともあるそうです。

なお、その手塚先生初のポスターは、記念館に展示されています。

さて、今回はその春團治師匠の依頼で描いた中から、「粗忽の釘」をご紹介しましょう。上方では「宿替え」という方が通りがええですな。

ある夫婦が宿替えをいたします。男が大きな風呂敷に荷物を入れて運ぼうとすると持ち上がらない。重いのやろうと荷物を減らしてもダメ、よう見たら敷居も一緒に括ってした。
先に男が荷物を持って出て、嫁はんは後片付けをして新居へ。ところが先に出たはずの男はまだ着いていない。道中チンドン屋に付いていったり、溝にはまったおばあさんを病院に連れて行ったり、ドタバタした挙句に、掃除が終わった頃に汗だくになってたどり着いた。
嫁さんに箒をかける釘を打ってくれと言われて、「偉そうに言っても女じゃ、釘の一本も打てやせん」と得意になって、根元まで打ち込んでしまいよった。
嫁さんに怒られて、隣に詫びに行かされますが、なんや話が通じない。それもそのはず、慌てもん、真っ直ぐ向かいの家へとびこんでよった。慌てて今度は隣の家へ参ります。
「で、釘はどのへん打ちなはった?」
「日めくりの掛かってあるちょっと横手です」
「あんたの家のどこに日めくりが掛かったあるか、うちから分かりますかいな」
「帰ってどこならどこ、ここならここと叩いてみなはれ」
教えられて、自宅に戻った男、釘のところを金槌で叩いて、
「ここならここぉー、どこならどこぉー」
「大分アホやで、言われたまま言うとるがな。何や、阿弥陀さんの喉の横手からにゅっとでたあるがな!」
大慌てで男を呼び戻します。
「あんたとこ、あんなところに箒かけたはりますのか?」
「何であんなとこに箒かけまんねん。あんたが打った釘やないか」
「あぁ、うちのですか。これは困ったなあ。」
「何が困りまんねん?」
「毎日ここまで、箒を掛けに来んといかん」

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