【歳時記と落語】孫文
11月12日は孫文の誕生日です。さて、この孫文が落語となんの関係があるのかと思いきや、これが意外なところでつながります。
辛亥革命の中心人物として、各国を巡って支援を訴えた孫文ですが、中でも日本は彼自身が一時亡命したこともあり、結びつきが強いですな。梅屋庄吉が特に有名ですが、その他にも多くの人が様々な面で孫文に協力しておったんです。中でも、山田良政は、中国革命における日本人の最初の犠牲として知られております。
山田は、陸羯南(くが かつなん)に勧められ中国語を学び、上海で働きますが、日清戦争が始まりますと、職を辞して陸軍通訳官として従軍しました。その後、海軍少佐・滝川具和の知遇を得、滝川を頼って北京の日本大使館付の海軍省嘱託職員という身分で調査諜報活動にあたりました。まあ、スパイですな。
翌年、戊戌の政変が失敗に終わりますと、政変の中心人物である梁啓超や王照の日本への亡命を手助けしました。その縁から、1899年に日本へ帰国した山田の元を孫文が訪れます。協力を約束した山田は、1900年に南京同文書院の教授兼幹事として南京へ渡ると、革命の準備に関わります。
10月6日に恵州での武装蜂起が起こると、孫文から依頼されて陣営に赴きますが、戦況はすでに劣勢となっており、撤退を余儀なくされました。そして10月22日、撤退中に命を落とします。戦死したとも捕らえられ処刑されたとも言われおります。
1913年、革命を成功させ中華民国を建国した孫文が来日、東京府下谷区谷中(現、東京都台東区谷中)の全生庵に山田の慰霊碑を建てました。
この全生庵、山岡鉄舟が建立した寺ですが、実は落語とも関わりが深く、山田の慰霊碑の隣には怪談で有名な三遊亭圓朝の墓が、そして初代から四代目までの三遊亭圓生の合祀墓があります。そして、圓朝ゆかりの幽霊画コレクションでも知られています。
ちゃんと孫文と落語がつながりましたな。
しかし、ここで圓朝の幽霊噺というのはあまりに季節はずれですんで、圓朝作と言われる冬の噺を一席。
江戸から身延山へ参詣に行った男、帰りに大雪にあって道に迷うてしまいます。山中の一軒家にたどり着き、一夜の宿を求めます。出てきたのは鄙には艶な年増。ところが、喉から襟元にかけて大きなアザがある。
聞いてみると、元は吉原の遊女で、アザは心中をし損ねた時の傷だという。
体も冷えているだろうと、お熊は男に卵酒を作る。男は疲れていたせいか、いくらも飲まないうちに眠気を催し、別間に床を取ってもらって横になる。
お熊が薪を取りに出ている間に、入れ違いに帰ってきたのが亭主。残っていた卵酒をすっかり飲み干すと、苦しみだした。お熊は、男を殺して身包み剥ごうと卵酒には毒を入れておったんです。
これを聞いた男は、たまたま持っていた小室山の毒消しの護符を雪で飲み込み、身体がきいてくるとそっと逃げ出した。
そころが、たちまち見つかった。
鉄砲を手にしたお熊に追われ、男は「南無妙法蓮華経」と唱えながら逃げます。絶壁に追い詰められて、下を見ますと、増水した鰍沢(富士川)の流れにいかだが見えた。滑り落ちていかだに乗りますが、流れだしや岩にぶつかってバラバラになった。一本の材木につかまって「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と必死に唱えます。崖の上から、お熊が男の胸元に狙いを定めます。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
お題目を唱えていると、銃声一発。
弾は、男のまげをかすめて後ろの岩に「カチィーン」と命中した。
「ああ、この大難を逃れたのもご始祖さまの御利益。お材木(お題目)で助かった」