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【歳時記と落語】李小龍の誕生日

今週は節気としては、特にないんで、まあ趣味に走ってお話をしたいと思います。

11月27日は、ブルース・リーこと李小龍の誕生日です。亡くなったのは1973年7月20日、もうちょって50年以上になるんですな。2013年が没後40年でしたんで、香港文化博物館ではそれを記念して、2013年から2018年まで5年間特別展を開催しておりましたが、その後延期延期で今も開催中です。しかも2020年12月31日で一旦クローズし、その後2021年後半にリニューアルして再開、2026年まで継続の予定です。

世界中に「カンフー映画」ブームを巻き起こした李小龍ですが、いわゆる「カンフー映画」の主演、ブームの原動力となったのは、香港帰国後のたった四作品しかありません。『ドラゴン危機一発』(唐山大兄)、『ドラゴン怒りの鉄拳』(精武門)、『ドラゴンへの道』(猛龍過江)、『燃えよドラゴン』(龍争虎闘)です。彼自身のキャリアからすれば、仕事のごく一部ということになります。

それだけに、一作一作のインパクトがどれだけ大きかったかというのが分かろうかと思います。

映画の中で、李小龍を印象付けているのが、「怪鳥音」と呼ばれる独特の叫び声と、「ヌンチャク」アクションでしょう。

画期的アクション映画が彼のキャリアのごく一部ということと、その大きな要素である、この「ヌンチャク」アクションは不可分の関係にあります。

それは彼の武術家としてのキャリアです。

李小龍が創始した「截拳道」は今日でも継承されていますし、総合格闘技の源流とも言われています。しかし香港帰国につながるアメリカ映画、TV界での彼のキャリアは、「截拳道」を創始した武術家としての認知から始まっているのです。むしろ、アメリカでは武術家、哲学家としての方が評価が高いともいえます。

そして、この武術家としてのキャリアが、「ヌンチャク」アクションに大きく影響してくるのです。

李小龍は、アクション・スターとしてを注目されるようになるのは、1966年にTVドラマ「グリーン・ホーネット」にカトー(ケイトー)役で出演してからです(リメイク版では周杰倫が演じました。それが気に入らなかったのが甄子丹。彼は、自身の映画「精武風雲」の中でカトーそっくりの衣装で登場します)。このドラマの中で、彼はすでに「ヌンチャク」アクションを披露しています。つまり、武術家時代に、「ヌンチャク」を身に着けていた、ということになります。

李小龍に「ヌンチャク」を教えた人物、それは日系の空手家・落合秀彦氏でした。ジャーナリストの落合信彦氏の実兄です。つまり、最近話題のメディアーティスト落合陽一氏の伯父ということになります。
李小龍と落合氏が出会ったのは、1960年代の半ば、ロサンジェルスのYMCAだったと言われています。落合氏はアメリカの格闘家の殿堂に名が列せられているほどで、アメリカの空手界に大きな足跡を残した偉大な格闘家です。

ほぼ同じ頃、ロスにはもう一人偉大な日本人空手家がいました。1965年に渡米した糸東流の出村文男氏です。彼もブルース・リーとは親交があり、古流などを教えたようです。彼がヌンチャクを教えたという説もありますが、アメリカでは落合秀彦氏という説が一般的です。

いずれにしても、沖縄唐手の武器である「ヌンチャク」の技法を、李小龍は、格闘家時代に習得していましたわけですが、彼の「ヌンチャク」アクションは、沖縄唐手のそれとは大きく異なっています。

それは、「ヌンチャク」と同様の武器は、フィリピン武術「カリ・エスクリマ」でも使われており、李小龍はこのフィリピン武術の技法を取り入れて、独自の「ヌンチャク」アクションを作り上げたのです。

そしてここにも、彼の武術家としてのキャリアが大きくかかわっています。彼の高弟にして盟友、李直系の「截拳道」を今に伝える武術家・ダン・イノサントの存在です。李小龍の死後に大幅な追加撮影の末に完成を見た「死亡遊戯」にもカリの達人として出演しています。フィリピン武術の達人であるイノサントから、その技法を学んだことは疑いようもありません。

さて、日本が誇る和製ドラゴンこと倉田保昭氏が、李小龍にヌンチャクを教えたという説がありますがこれは、今述べたように誤りで、倉田氏が李小龍と初めてあったのは、『ドラゴン怒りの鉄拳』(精武門)撮影中の1971年だということでも、それは明らかです。倉田氏自身が語っているところでも、自身のヌンチャクを李にプレゼントし、それを李が映画の中で使ったというもので、「ヌンチャク」を教えたとは言ってはいません。武術談義が弾み、話が「ヌンチャク」に及んだときに、李が今手元にないというので、偶々持ってきていた倉田氏が、じゃあ俺のをあげるよ、と言った、というようなことのようです。

不世出の武術家にしてアクションスター、李小龍は少年時代に葉問より詠春拳を学び、その後様々な武術・格闘技を学び、自らの肉体を通し、「以無法為有法 以無限為有限」という哲学の元に統合して「截拳道」を作り上げました。その過程の象徴が、彼を特徴付ける「ヌンチャク」アクションであると言ってもいいでしょう。

天才といっていい李小龍でも、はじめはやはり学ばなければ何もできなかったわけで、習い事、稽古というのは、大切なものです。

現在も習い事は老若男女を問わず盛んですが、実は日本の江戸時代というのは大人の習い事が盛んだった時代でもあります。余裕の有る商人くらいやと、ちょっと風流に短歌や俳句、連歌なんぞを楽しみました。文楽の語りである浄瑠璃をやるてなことも流行りました。「寝床」「軒付け」「猫の忠信」なんかには浄瑠璃が出てきます。庶民でも手軽に習えるというたら、小唄、踊り、常磐津、三味線で、関係しますんでまとめて教えている稽古屋なんてもんがあちこちにあったようです。

さて、ここにおりました我々同様という男、町の甚兵衛さんのところにやってきます。女にもてるにはという話になります。もてる条件として昔から言われるのが、「一見え、二男、三金」。今で言うと、センスがよくてイケメンでヒルズ族でというわけですが、残念ながらどれも当てはまりません。そこで甚兵衛さんが進めるのが「四芸」、なんぞ芸でもできたらもてるかもわからんというわけです。
早速男は、甚兵衛さんの紹介で横町の稽古屋へ。ちょうど女の子が稽古しているところ、外からのぞいて散々茶々をいれます。女の子に「腰を折んなはれ(腰をおとしなさい)」というのを聞いて、表の格子を折ってしまいまして、「甚兵衛はんの紹介で今日からあんたの手下や」と上がりこみます。
まずは、みなと一緒に女の子の稽古を見なはれ、ということで男を座らせまして、お師匠はんは稽古の続きをいたしますが、女の子がえらい笑い出す。見ると、男が鉄瓶の上に草履を乗せている。来る途中で立小便をして濡れたのを乾かしておるんですな。
気をとりなおしまして、次の子の稽古を。すると袂から芋が三つ出てまいります。来る途中でこうたもんですな。お師匠はんが預かって、踊りの続きを、すると突然女の子が泣き出します。男が、芋を二つも食べてしもうたんです。
それで、まず男に稽古をということになります。
「あんた、何のお稽古がよろしいの?」
「そうでんなあ、なんせ色事が派手にできるようなお稽古がよろしいな」
「色事ができるようなお稽古て、うちではそんな稽古せえしまへん」
「何ででんねん?」
「昔から言いまっしゃろ。『色は指南のほか』でおます」

今ではこのサゲも分かりにくうなりました。色事というのは、何かと人の分別を狂わせて、常識どおりにはいかんようになってしまう。昔も今もそれはかわりまへんが、それを昔は「色は思案のほか」と言うたんですな。

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