見出し画像

香港と大阪で伝染病と戦った男

前回、大阪と香港の造幣局の関わりについて書きましたが、もうしばらく、大阪と香港というくくりで、書いてみようと思います

今回は香港と大阪がどう繋がるのか。それは石神亨という一人の医師の人生に関わっています。

北里柴三郎と出会うまで

まず、前半生をざっくりまとめてみます。

石神亨は、幼名を吉永初太郎といい、安政4年(1857年)熊本県玉名郡山北村に吉永喜平の長男として生まれました。元服後は学次郎と名乗ります。亨と改名したのがいつかはよくわかりません。北里柴三郎も学んだ熊本公立病院附属古城医学校でオランダ人医師マンスフェルトの教えを受けていますが、この時点北里と面識があったかは不明です。明治9(1876)年に新設の熊本県立医学校に入学します。翌年西南の役が勃発し、県の臨時雇い医官として従軍します。

1882年に上京し、翌年には医術開業免許を取得しますが、不運なアクシデントから学資が続かなくなり、海軍軍医補となり、横須賀海軍病院に勤務します。1884年、海軍軍医総監・高木兼寛と出会います。高木は、薩摩藩の出身で、東京医学校取締も務めた石神良策の弟子に当たり、師の死後、その遺児八重子を引き取り、養育していました。1888年、高木は、吉永亨の将来性を見込んで八重子との結婚をすすめ、吉永亨に石神家を継がせます。石神亨は、海軍軍医学校教官に任じられ、階級も海軍大尉に昇任し、その後海軍大学校教官にまります。

1891年、石神は、フランスで建造中の軍艦巌島を日本へ回航する一行に同行、ヨーロッパを視察、ベルリンのコッホ研究所で北里柴三郎と出会います。
1982年に北里が帰国して伝染病研究所を設立すると、石神は海軍を休職(待命)、年末には研究所に移り住んで北里の助手となります。

さて、次はいよいよ香港の話になります。

香港で遺書をしたためる

1984年5月、香港でのペスト大流行します。日本政府は月末には調査団派遣を決定、調査団は6月5日に出発します。
メンバーは6名。医科大学教授の青山胤通とその助手・宮本叔と学生の木下正中、内務省技師の岡田義行、そして伝染病研究所長の北里柴三郎とその助手である海軍軍医・石神亨でした。
一行は12日に香港に到着、北里と青山は中川恒次郎領事と直ちに協議を開始、翌日には香港政庁に赴き、医務長アールス医師、国家医院副院長で避病院(伝染病患者を隔離する病院)担当のローソン医師と面会し、調査研究の場所を検討します。
しかし、ちょうど12日に、始まったばかりの戸別調査始で発見された患者21名と東華医院の全ペスト患者約40名を、病院船ハイジーア号(1891年建造)に移したものの、すぐに満員となっていました。そして、14日からケネディータウン警察署を転用して臨時病院とすることが決まったばかりで、北里らはできたばかりの臨時病院の一室を研究室として借り受けることに決まります。
また、香港政庁は、ハイジーア号やケネディータウン臨時病院に隔離されて西洋人医師の治療を受けることに不安を抱く中国人のために、ケネディ-タウンのガラス工場を借り受けて東華医院別院として中国人医師による治療を21日から開始します。

さて、14日から研究に着手した北里らは、さっそく最初の検体を調査する機会を得ます。解剖を青山が、病理検査を北里が担当しました。そこで早くもペスト患者にのみ見られる菌を発見します。しかし、死後十時間以上経っていたため、更に調査を重ねます。他の検体でも、また培養した菌でも同じ結果が得られたことから、18日にペスト菌発見を公表しました。

26日、最後の解剖が行われる際、宮本らが多忙であったため、石神が青山の解剖を手伝うこととなります。また、たまたま見学に来ていた香港在住の開業医である中原医師が手伝いました。
すると、28日夜に青山が、次いで石神、中原が発病します。石神らは病院船ハイジーア号に収容されます。
石神と青山は治療を受けますが、当時ペストは根本的な治療法もなく、高い致死率の恐るべき伝染病でした。

石神は死を覚悟し、最愛の妻に宛てて遺書をしたためます。この遺書は、藤野恒三郎(1984)に掲載されています。孫引きにはなりますが、全文を引いてみます。

「吾が最愛なる八重子よ 今卿に此の書を書き遺すの不幸に遭遇せしは、我が家族の一大不幸にして最も悲しむ。余は実に黒死病に罹れり。此の病に罹る者は十中八九人必ず死を免れず。故に余亦死亡するものと覚悟せざる可らず。然れども命は神のものなり。如何に死を覚悟すればとて人の義務として充分なる加療を要す。余は罹病前に病を免がれんことを力め、罹病後は死を免がれんことを力めつつあるなり。若し不幸にして死なば御身及び最愛の両児如何に悲しみ、如何に嘆き、如何に生活すべきや。之を思えば涙淋々として垂る。
然れども余は信ずる。最も正直にして他愛心に富む卿なれば必ず両の愛児を愛育して完全なる人間とすることを得べし、願くば余の実子たる民、愛の両児を養育して父の子たらしめよ。
唯々気の毒なるは費用乏しきことなり。然れども貧富は常なし、又良機もありて養育費は得る道もあらんか。願くば住を京都に移し、児を同志社にて教育せんことを望む。一人は看護婦となる良からんか。
海軍より受くる一ケ年百圓の金を元とし両児を養育するは実に重任なれども、余が精神は毎に熟慮するところ、願くば努力せよ。
頭痛甚しく目眩み、精神乱れて書く能はず、他は平日の事に由て推知あれ。
死後の事は余は決して心配せず、余は必ず天国に登るを信ず、アーメン。
6月29日夜 ホンコン・ハイゼアに於て」

石神と妻八重子は結婚後洗礼を受けた熱心なキリスト教徒でした。同志社への進学を願っているのはそのためでしょう。また、民、愛という二人の娘の内の一人は看護婦にするようにと願っていますが、これは上官であり恩人であり義父とも言える存在の高木軍医総監の影響であったのではないかと考えられます。実は、日本に看護婦という職業を紹介し、国内初の看護婦養成学校を開いたのは高木だったのです。
なお遺書の最後の「ハイゼア」は病院船ハイジーア号のことです。
幸いにも石神と青山は九死に一生を得ましたが、たまたま見学に来て手伝った中原医師は不幸にも亡くなってしまいます。

発病からの経過を、ローソン医師の記録(Lowson,James A.(1895).The epidemic of bubonic plague in 1894 Medical report.Noronha & Company)から拾って、概要を記しておきます。

体温を測ると102°F(38.9℃)もあった。かなりの頭痛、軽い震え、左腋の下の痛みがあった。さらに、彼は多くの病気を見なれた人には直感的に分かる、漠然としたペスト患者の特徴が見られた。彼はすぐに同僚とハイジアに隔離された。到着したとき彼の気温は99°F(37.2℃)だったが、真夜中には体温は102°F(38.9℃)になった。30日の正午は104°F(40℃)で、午後6時には最高記録の105°F(40.6度)に達した。

検査では、左手に開いた創傷はなかったものの、指の一本に小さな傷跡があった。それは数日前に彼自身が傷つけてしまったものだと証言した。30日の朝、リンパ腺の腫れに非常に痛み、結膜の浮腫があり、彼の状態は全体的に悪かった。

処理:アンモニアおよびキニーネ、スポンジによる解熱、催眠鎮静・抗不安剤ブロムカンフル(一臭化樟脳:monobromated camphor)を4時間ごとに投与、それに通常の栄養、エッグフリップ(タマゴ酒のようなカクテル)、ブランズのチキンエッセンス、牛肉のスープ(beef tea)など。

7月1日、彼は精神錯乱と小康を繰り返し、時には痙攣を起こしたが、脈拍は良くて規則的だった。しかし氷嚢を撒き散らす傾向があった。最初、心音は長く活発だったが、時折雑音が目立つこともあった。午後6時、彼は喉の痛みを訴え、調べたところ、咽頭が口蓋および左の扁桃腺の潰瘍によって非常に充血しているのが発見された。精神錯乱は日中それほど見られなかった。その日の午後には、脈が弱くなり、やや重篤になったため、アンモニア混合物にいくらかのジギタリスが加えた。喉のために塩素酸カリウムでうがいをした。 7月2日、塩化水銀2グレンを夜に与えた。尿には微量のたんぱく質が含まれていた。

7月3日:この日の朝には幾分回復した様子。脈拍も喉も改善された。この日はジギタリスは混合しなかった。ブロムカンフルの4時間ごとの投与を継続。 7月4日:条件は変わらず。再びアンモニア混合物にジギタリスを混入。 日中わずかにまどろむものの、夜には非常な錯乱状態に陥る。 7月6日:尿閉が認められる。3日間ではじめて眠った。 7月7日にいくらか膀胱炎が認められた。7月3日:今朝の脈拍が改善され、喉も改善されたようです。ジギタリス混ざり合っていなかった。樟脳の一臭化物ii。 4時間ごとに、まだ進行中です。 7月4日:条件は変わらず、再びアンモニア混合物で与えられた - 日中わずかに潮が降りますが、夜は非常に乱暴です。 7月6日:尿の保持。初めて3日間寝た。 7月7日にいくつかの膀胱炎が明らかになりました。カテーテルの中に膿様粘液、血液らしき色合いも。大量の大麦湯 (下痢止めに用いる)投与を命じる。 7月8日:精神錯乱がなくなり状態はよくなった。—ストリキニーネと鉄混合物を一日三回投与。

7月13日には、わずかに右胸に胸膜炎、局所に芥子泥を塗布。7月26日、左腕にいくらかのリンパ管炎。鉛とアヘンで処置。8月3日に治癒し退院。細菌は6月30日朝に採取した血液から見つかった。リンパ腺の腫れは8日から見られたが、彼が日本に向けて出発したときにほとんど収まった。胸膜炎は数日で消えた。


石神は退院した8月3日に帰国の途に着き、12日に帰京しました。

その他のメンバーでは、大学4年生 の木下が、試験のために一向に先立って7月11日に香港を離れ、23日には青山と石神の様子を内務省に報告しています。北里と岡田は20日出発の30日帰京。
そして、慰問・看護のために香港入りしていた伝染病研究所の高木友枝(7月8日出発)と医科大学内科助手の高田耕安(7月14日出発) と青山、宮本は8月
21日に香港を離れ、31日に帰京しました。

こうして、当初30日の予定だった調査はようやく終わったのでした。

大阪での活躍

帰国した石神は海軍軍医に復帰、1896年2月には海軍大学校教官、6月に横須賀海軍病院と転任しますが、病気を理由に職を辞し、10月19日に大阪に向かいます。
すぐに大阪の桃山(今の天王寺区筆ケ崎町あたり)に場所を借りて診療と研究を始めます。桃山にはすでに伝染病対策のために作られた大阪市立桃山病院(後に大阪市立総合医療センターの統合)がありましたが、その近くだったのでしょう。
翌年には逢坂下之町に石神病院を開業、同時に伝染病研究所も開所しました。

画像1

国際日本文化研究センター所蔵の最新大大阪市街全圖(昭和3年)を見ると、一心寺の西の卍の左に病院の記号と「石神」とあります。一心寺のすぐ西の卍は西蓮院でしょう。すると、そのさらに西というと、今、料亭天王殿がある辺りだと思われます。石神病院の前は丸満という料亭だったようですから、元に戻ったという感じでしょうか。

画像2

1898年、石神は石神病院院長のまま、国立大阪痘苗製造所(後の赤十字病院)の所長を兼任します。開業医が国立機関の公務員を兼務するわけですから、これはかなり稀有な事態だと思われます。また、製造所は奇しくも最初に診療所を開いた場所の近く、同じく桃山に位置していました。
1902年には、大阪南部の浜寺公園の一角に結核診療所として石神病院浜寺支院を設立し、1904年には療養所に研究所を移設します。

画像3

血清用の動物の飼育も行っていたようで、さながら動物園が牧場のような風景もあったことが、産経新聞のこちらの記事からうかがい知ることができます。

当時の浜寺は白砂青松の地で、郊外の保養地として最適でした。それももちろん療養所設立の大きな理由ではあったのですが、当時の新聞記事のよると、逢坂下之町の本院は敷地の西側が、1903年の第五回内国勧業博覧会の会場用地にかかっており、用地買収で狭くなったことも理由だったようです。1900年ごろの地図では、先ほどの地図で本院西側にある道路が描かれていないので、当初の本院は道路を越え今の天王寺動物園の中まで敷地があったのでしょう。
なお、浜寺の研究所は現在、一般財団法人石神紀念医学研究所として存続しています。

石神の浜寺の診療所は、1889年に鶴崎平三郎兵庫県立姫路病院長が兵庫県の須磨に開いた診療所とともに、関西の2大海浜サナトリウムとして、結核治療を牽引する役割を果たします。しかし、それは同時に、大衆の無理解に乗じたジャーナリズムによる誹謗中傷の的になることでもありました。

そこで1912年、石神は府立大阪医学校校長・佐多愛彦、緒方洪庵の孫である緒方銈次郎、緒方病院と並ぶ名門・高安病院の院長・高安道成(緒方洪庵門下の高安道純の次男)ら有志とともに、啓蒙を主目的として大阪結核予防会を設立します。1914年には同会直属の結核診療所が開設されますが、これにも石神は指導的な役割を果たしています。
大阪には1917年に、全国に先駆けて、公立の結核療養所である大阪市立刀根山病院が開設されますが、石神や佐多らはこれにも尽力しています。
さて、石神自身に話を戻しますと、1916年に恩賜財団済生会が現在の大阪市北区中崎町に大阪府病院(現・中津病院)を開設すると、石神は初代院長に就任します。ちなみに、前年に東京の芝に開設された済生会芝病院(現・中央病院)の初代院長は北里柴三郎です。この事実から見ても、石神が大阪を代表する医師・研究者であったことは間違いないでしょう。

しかし、石神は1918年2月に辞職すると、10月には腸閉塞で亡くなります。葬儀の際、棺を支えたうちの一人は、盟友・志賀潔でした。
石神の死後、その医学関係の蔵書約1万冊は、1966年にご子息の石神等氏より大阪大学微生物病研究所に寄贈され、「石神文庫」として保存・活用されています。


【参考文献】

中瀬安清(1995)「北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺—ペスト菌発見百年に因んで—」日本細菌学雑誌50(3),pp637-650
田口文章(2003)「石神亨の生涯 北里柴三郎所長の助手第1号(上・下)」日本医事新報 No.4118,pp41-43.日本医事新報No.4119,pp43-46
小笠原慶彰(2003)「恩賜財団済生会と済生会大阪府病院移転前後—権利としての社会福祉から見た天皇制慈善—」京都光華女子大学研究紀要41,pp A253-A269
真柳誠(1983)「中国に於いて出版された日本漢方関係書籍の年代別目録(1)」「同(2)」『漢方の臨床』30(9),pp47-5.30(10),pp32-41
竹村民郎(2008)「<共同研究報告>公衆衛生と「花苑都市」の形成 : 近代大阪における結核予防に関連して」国際日本文化研究センター日本研究37,pp329-346
藤野恒三郎 (1984)『藤野・日本細菌学史』近代出版
中嶋峯雄(1985)「香港 その歴史と未来(31)」世界週報1985.04.30
桂堂生(1916)「大阪の東南 郊外電車と大阪(29)(30)」大阪毎日新聞1916.3.5,1916.3.6(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 日本(3-092)による)
石神亨(1903)『通俗肺病問答 第四版』丸善
蒲豊彦(2016)「隔離の恐怖−1894年香港のペスト体験(『近現代中国における社会経済制度の再編』)」 京都大学人文科学研究所,pp299-327
遠山椿吉(1927)「『ペスト』の思ひ出」日本傳染病學會雜誌2(1)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?