自己表現苦手びと
私は常に、漠然と孤立感を感じている
そんな状況を作ってしまった原因の半分は、自己表現(感情表現を含む)がとてつもなく苦手なところにあると思う。
ちなみにもう半分は、感性の合う人がいないところだ。
でもこれはいないのではなくて、見つけられてないという部分も大いにあると思っている。
(というかそうでもしないと、報われないから。)
だから自分のことをここに書いて少しその練習をしよう。
これを見ているあなたとどれくらい通じる部分があるのか。
その前にどこまで伝わるか、か。
…
さて、何を伝えたらいいんだ?
自己紹介でよくあるものといえば、
・年齢性別身長 などの客観的、相対的な指標
・好きな〇〇 どっち派 という好みを聞くもの
・〇〇ができる 〇〇の経験がある などの特技系
・〇〇に例えるなら✕✕ という、…これ何の参考になるの?
この中には私の求めている情報は全く無いんだよな。
客観的な指標は聞いてもはあそうですか、という感じだし、仮に同じだったとしても共感を生むようなものではない。
自己の本質的な部分は客観的指標によって定められるものではない。
高校生だから〇〇、女性だから〇〇という考え方はそれこそ世間で謳われている偏見、差別というものになりかねないのではないか?
私はそういう年齢やら身長やら血液型やらで態度を変えるつもりはないし、少なくとも初対面で知り合う情報ではないと思う。
多かれ少なかれ決めつけが生じてしまう。と思う。
好きな〇〇
もし同じならやったーという感じで聞いているのだろうが、同じだということで何か話が膨らむのか?
やったーの先には何かあるのか?
例えば同じくスイーツが好きです!となったとしよう。
その先にあるのは、必ず「どのスイーツが好き?」という話である。
これは自分と他人との違いを見つけ出そうとしていることの表れである。
好みの全部が全部同じなら人は面白くないと感じるだろうし、その先に会話はなくなる。
つまり、好きな〇〇にある意義というのは、自分と違う好みによって得られる新しい知見、情報にある。
好みの違ったその先に議論があって、新しい考え方が得られることで意味をなす。
であれば、自己紹介という片方により一方的に行われる好みの羅列というのはあまり意義を感じられない。
〇〇ができる 〇〇をやってた
特技というものはその人の深い経験や知見を得られる機会だが、これもあくまで一方的な思い出話だ。
別にこれに意味がないとは言わない。だが私が今求めているものは、私と一緒にお互いの考えを深め合えるような話ができる相手を探すことである。
一方だけその経験があり、一方だけが経験を話す状況に議論は生まれない。
〇〇に例えるなら…
これは…なんだ?
しりとりくらいの軽い遊びにしか発展しない会話だ。
これを自己紹介で言われても…おーん
っていう相槌しかできないな
そんなわけで、今この世界にある自己紹介に、私が会いたい人を探す材料はなく、社交辞令としてしか認識していない。
そんな自己紹介をここでやってもなぁ…。
かといって他に代替案が見つかっているわけでもないので、こうやって孤立しているわけだけれど。
これに異議や反論がある人、またはこれを読んで感性が合うかもと思ってくれた人は、
間違いなく私の求めている人なので、なにかの方法でお話しましょう。
仲良くしたいな
というわけで、自己紹介ができないという自己紹介でした。
では。