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私の神体験(自伝③)

エル・グレコの「キリスト」

陶然と天上を見上げているイエス

まるで魂の故郷、神からの呼びかけを聞くように

かつて宇宙飛行士のジム・アーウィンは月で強烈な神の臨在を感じたという。

まるですぐそこに友達がいるように、話しかければ答えてくれる所にいるような感覚。

その経験に衝撃を受け、以後彼は科学技術の最先端をゆく宇宙飛行士からキリスト教の牧師になってしまった。

1.目の前に天使が現れた!

それは大学生の頃、千葉駅の雑踏の人込みをかき分けるように改札を出た瞬間だった。

ふいに妙に透き通った瞳の女の子が前に現れ行く手をさえぎった。

瞬間かわそうとするも、いきなり「キリスト教に興味ありませんか?」ときた。

「んーっ?」としばらく彼女の視線を外さない目を見ている内、何やら好意が沸いて「ないこともないです。」と答えてしまった。

その後は彼女とどんな会話をしたかは覚えていないが、気がつけば彼女について近くにあるという教会へと向かっていた。

10分ほど歩いたろうか。住宅街の小道に入り、庭の木々に囲われるようにしてある一軒家に着いた。

古板の門をくぐり、ガラガラと横に玄関の戸を引くと、廊下を左に曲がり6畳ほどの畳の部屋に通された。

中央に四角いテーブルと部屋の隅に大きめの黒板がある以外ごく普通の家と変わりない。

彼女と話ができると思っていたが、まもなく少し小太りの男性が出てきて、自己紹介の後、黒板の前で教会の趣旨等の説明を始めたので少しガッカリした。

その時は後日ここで寝泊まりして合宿をすることになるなどとは夢にも思わなかった。

これが後に社会問題にまで進展して新聞を賑わした韓国の文鮮明氏による原理運動であったなどとはその時は知るよしもない。

彼女の水晶のような瞳に惹かれ熱心に勧められ、やがて私も含め3人だけの二泊三日の合宿に参加することになる。

原理講論という本や聖書を教科書にした講義を受け、中でも讃美歌を歌うのが好きだった。

♪♪ いつくしみ深き 友なるイエスは ♪♪ などの歌でイエスキリストが今まで知識でしかなかったのが、ずっと身近な存在になった.

その後、同じ千葉市のアパートのような所で20人ぐらいの共同生活が始まった。

主食はパン屋さんからもらい受けたパンの耳で、これを蒸したり焼いたりしてわずかなお惣菜で食べた。

男女半々だったが、不思議と異性としての意識は薄く、すぐに気楽に話せる友達になれた。

ここでは千葉駅での伝道が主で、私もいつしか駅の改札前で「キリスト教に興味ありませんか?」とやるようになっていた。

そしてこの伝道で、少しはにかみ屋の女の子と実直そうな好青年ふうの若者が新たな信者になった。

強く印象に残っているのが「度胸試し」としょうされる原理講論の講義だ。

広い駅前の広場の一角に黒板をすえて一人で講義をするのだ。通り過ぎる人が聴こうが聞くまいがおかまいなしだ。

もっとひどいのはわざわざ派手なスキーの衣装などを着込み何やら叫びながら駅前を走り回るというのもやった。

2.海岸での熱烈な祈り

月に数回は教会のマイクロバスに乗り込み募金活動に出かける。ベトナム難民(当時はベトナム戦争中だった)を救うためとかの名目で、東京の駅前や交差点の陸橋の上でやったこともある。

後で知ったが、これは全て教会の共同生活の生活費だったのである。

ある時はバスで首都圏を離れ、地方に募金活動キャラバンをやったこともある。

地方の住宅地に着くと一人一人適当な間隔でおろされる。そこで一件一件回りながら募金活動をし、夜はバスの中や信者のアパートの一室などに分かれて寝袋で寝た。

ある時、夜の暗闇の中、とある海岸に出て、それぞれが適当な場所をとりビニールを敷いて、正座して土下座をするように頭をひれ伏し、ひたすら祈るのというのをやった。

日常の共同生活では朝晩と食前などの祈りは生活習慣としておこなっていたが、海岸で心地よい波の音を聞きながら一心に祈っていると、いつもと違う感覚がやってくる。

今ではもう忘れたが「天のお父様・・」で始まるこの祈りは、すぐ近くの兄弟たち(教会では神をお父様、信者をそれぞれ兄弟と呼んでいた)の熱烈な祈りの響きにいつしか感応して自分の声が熱を帯び勢いづいくるのを感じた。

胸の内からは熱いものがこみ上げてきて、ほとばしりでるような激情があたりを包みこみ得も言われぬ一体感の中で恍惚としている自分がいた。

実に1時間ぐらい我を忘れて必死に祈っていたのである。

その後、紆余曲折はあったが、この共同生活も1年とは持たず結局私はまた大学生活に復帰することになる。

しかしこの体験は、後の「いまこの瞬間のみに神(魂の故郷)は現れる」という気づきにつながっていくのだ。


 







私は広島県の可部町という所で生を受け、生後間もなく東京の足立区に引っ越してきた。

獣医さんの前夫から逃げるようにして父と再婚した母と、兄と姉の5人家族は6畳一間の安アパート暮らしからスタートした。

小学生の頃、葛飾区の亀有の都営住宅に移る。

初めての庭つきの2DKの住宅は子供心には豪邸に引っ越してきた印象だ。

周り一面は田んぼが広がり、農家がぽつりぽつりと点在する。

まだ貧しかったので、薄っぺらいランドセルをしょって兄弟3人は2キロ先の小学校まで田んぼ道を通った。

当時は珍しいダットサンのブルーバードで通勤してくる男の担任の先生はキザッタらしく、学級委員の女の子には優しくさん付けで男の生徒には呼び捨てするのが、子供心にえこひいき先生と映り、そのせいかぱっとしないおとなしい生徒だった。
ところが3年生になって授業の上手な優しい女の先生に代わると、途端に授業中よく手を上げる活発な生徒に変身した。
運動も勉強もでき明るくはじけるような性格で惹きつけるO君
秀才で如才なさが売り物のM君にはかなわないが、
気づけばクラスのNO3になり3学期の学級委員になっていた。

そのまま6年生まで続いが、中学校に入るやいきなり1学期の学級委員になってしまった。
もともとおとなしい性格の私は教室の前に立って発言したり、他の生徒を注意したりがとても苦痛だった。

特に先生が欠席して自習時間になるのがとても嫌だった。
自習の連絡を受け課題を先生から言われると教室の前に立っていうのが恥ずかしく、黙って黒板に課題の内容を書くのだ。
まだ生徒達がおとなしく自習してくれればいいが、必ず何人かはしゃべったり、中には、席から離れてふらふらして、他の生徒にちょっかいを出す生徒もいる。
教室がうるさくなると隣の教室で授業している先生が時々、いきなりガラッと教室のドアを開け、「静かにしろ!」と怒鳴る。それだけならまだしも「級長はだれだ、注意しろ!」という先生もいる
「なんで俺まで注意されなきゃ行けないんだ。』と内心は不平たらたら。
中2の時、大分級長稼業の板について優等生気取りがそろそろ定着したころノリで生徒会役員の選挙に立候補させられることになってしまった。
体躯館の全校生徒が見守る中、一人一人壇上に上がり立候補演説をしなければならない。
まだ純真なので逃げるという発想がない。
やるっきゃない、と覚悟を決まるのだがこれは当時相当のプレッシャーだった。
その時担任だった体育の男の先生は優しく、立候補演説の数日前、わざわざ私を屋上に呼んで、先生の目の前に立たせ、演説の予行練習をしてくれた。
迎えた立候補演説の日、壇上下の脇に候補者が椅子に座り順番を待っている。緊張を通り越し恐怖で内心震えていた。
いよいよ自分の名前が呼ばれた。
壇上に上がるまでほとんど無我夢中で宙を浮いている感じ。
全校生徒が見守る中、壇上への階段をうつむいて一段一段上るとき、死刑囚が執行室に向かう階段を一段一段あがるように、はちょっと言いすぎか。
ところがいざ壇上の演台の前にたち全校生徒の居並ぶ列を見た瞬間、なんと表現したらよいか
まるで畑のいもの列を見るような、妙に無機質の静謐を感じた。
それまでドキドキでぃていた心臓の鼓動もいつしか静まり、気づけば暗記してきた原稿通りの内容を自分でも惚れ惚れする朗々とした声音で口が動いていたのだ。
シーンと静まり返った場内でただタンタンと声が発生し気が付けば
場内の拍手の中、一礼して、席に戻っていた。
これが、自信になって






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