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映画「無名」〜スクリーンに映るワン・イーボーの実像と鏡像〜

 2023年、中国で『無名』に続き、フー・ジュンと共演したアクション映画『長空之王(原題)』、ホアン・ボーと共演したストリートダンス映画『熱烈(原題)』(監督は『無名』でタン部長を演じたダー・ポン)等が公開され、俳優として評価を高めたワン・イーボー。しかし、2021年に『無名』が撮影されて彼が“影帝”と呼ばれる銀幕のスター、トニー・レオンとW主演を務めることが発表された時、世間はこのニュースを驚きをもって受け止めた。ストリートダンスに魅せられK-POPグループ「UNIQ」のメンバーとして2014年、17歳で芸能界デビューした彼は、2019年に主演した時代劇ドラマ「陳情令」が国内外でヒットして俳優としてもブレイク、その後また主演ドラマ「有翡(ゆうひ) -Legend of Love-」(20)等が配信・放送され「風起洛陽〜神都に翔ける蒼き炎〜」(21)の撮影も終えていたが、映画の大役に抜擢されるにはまだ未知数の存在だったからだ。実は、このキャスティングはチェン・アル監督たっての希望だった。監督は優雅でありつつエネルギーを秘め、ふと脆さも垣間見える彼の個性に目を留め、最初からイエ役はワン・イーボーしかいないと決めていたのだという。

 確かに、しなやかな身体を持つ彼は時代劇から現代劇までどんな衣装も似合い、シャネルのようなハイブランドまで着こなす優雅さがある。同時に、ダンスや演技に没頭して完璧を目指す情熱的な面、プロのバイクレーサーとして活動するエネルギッシュな面もある。一方で、その一途さ、感受性の強さにはどこか危うい繊細さ、アンバランスさが伴う。そんな彼の個性が第二次大戦下の上海に生きる汪兆銘政権の秘密工作員イエという今時の若手俳優が演じるには重い役柄にぴたりとはまった。そして、彼は見事に監督の期待に応えて本作で俳優としての実力を証明してみせたのだった。

 ワン・イーボーが登場する最初のカットはイエが鏡の前で身だしなみを整える場面である。彼が上品なスーツを着こなす様は中国語で身なりが美しいことを表す“衣冠楚楚”という成語を想起させる。実際、劇中でイエは心が離れてしまった婚約者からこんなセリフを投げつけられる。

「着飾った(中国語のセリフでは“衣冠楚楚”)男は大嫌い」「あなたは死ぬのよ」

 実は「詩経」が出典とされる“衣冠楚楚”には本来、別の含意もある。美しい羽を持つが朝に生まれて夕べには死んでしまう短命な“蜉蝣(カゲロウ)”を指す表現なのだ。この婚約者の言葉を聞いてからイエの目つきが変わる。自分が死ぬ運命を受け容れるのではなく「生き残る方法」を見つけようと覚悟を決めたのだろう。冒頭でイエが人を殺めて返り血を浴びるシーン。ライターでタバコに火を点けようとする彼の手はかすかに震えていた。だが、最後にまた彼が人を殺めた時、もうその手は震えてはいない。彼は落ち着き払って自分の手についた血を洗い流すのだ。

 そんなふうにスパイとしての道を極めることになるイエだが、彼が職務のため、理想のために完全に感情を押し殺して生きていくのかというと、決してそうではない。ワン・イーボーはイエを、感情を殺せないスパイとして演じている。だから観客はイエの怒り、悲しみ、焦燥、悔しさ、喜びといった一瞬一瞬の感情を見て取ることができる。イエは大切に想う人のために涙をこぼすことさえするのだ。一方で、それらの態度の裏でイエがどんなことを考えているのか、すべてが見えるわけではない。ワン・イーボーは常にミステリアスな部分を隠し持つことでサスペンスの糸をピンと緊張させ、そうすることでかえってイエをリアリティのある生身の人間に見せている。

 そんな彼の演技において、ひときわ強烈な印象を受けたのは眼の演技だ。劇中ではイエが鏡を見つめるシーンが何度も登場し、観客は彼自身の眼差しと、彼の視線の先にある鏡像の眼差しを見ることになる。もちろん、眼の演技といえばフー主任を演じるトニー・レオンも負けてはいない。もし、この映画が30年前に作られていたらイエの役はきっとトニー・レオンが演じていたことだろう。『悲情城市』(89)ではホウ・シャオシェン監督が当時は広東語しか話せなかった彼に口のきけない設定を用意してでも主人公を演じてもらった結果、彼の眼で語る演技が観る者の心に強く訴える名作となった。長年、彼と組んで『ブエノスアイレス』(97)、『花様年華』(00)といった名作を世に送り出してきたウォン・カーウァイ監督も特に彼の眼の演技を絶賛している。冷静沈着に大局を見据えながら時に挑戦的にもなるフーの眼差しと、がむしゃらに突き進む真摯なイエの眼差し。口にできない秘密を抱える二人の眼差しが交錯する時、その得も言われぬケミストリーに観客はゾクッとさせられるはずだ。

 また、ワン・イーボーが香港映画界で長年、体を張ったアクションをこなしてきたトニー・レオンを相手に本格的な肉弾戦を繰り広げる鬼気迫る対決シーンも大きな見せ場だろう。さらに、彼が標準中国語だけでなく上海語、日本語のセリフまで見事にこなしているのも特筆すべき点だ。脚本が常に修正され現場ではセリフに変更が入ることも度々あったというが、彼が語学の才を発揮して慣れない言語のセリフもすぐに自分のものにして実に自然に演技していることに感服させられる。

 なお、エンディングロールで流れる主題歌「無名」はチェン・アル監督が自ら作詞してワン・イーボーが歌唱を担当した。

「もう一度 一緒に待たないか 名もなき者が光り輝くその日まで」

 そう歌うワン・イーボーはイエの生き様を静かに反芻しながら彼に語りかけているかのようで、そのはっとさせられるほど透き通った歌声に最後まで耳を傾けずにはいられない。

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