県道の赤い橋
2歳の頃、行方不明になったことがある。警察沙汰にこそならなかったものの、隣近所や親戚を巻き込んで大騒ぎとなったらしい。「あれは大変だった」と、祖母は亡くなるまでに何度もその日のことを口にしていた。
行方不明になった私は、数時間後、1kmちょっと先の知人宅で保護された。大人たちも予想できなかった移動距離だったという。先方から「しゃーちんちゃん、今日一人で来てるけど大丈夫?」という電話が入り、事件は解決した。2歳当時の私は何を思い、その距離を歩いたのだろう。
両親が教員の、共稼ぎの家庭に生まれた。父24歳、母23歳の夏、二人の結婚から約10か月後のことであった。いわゆるハネムーンベイビーなのだろうが、いまだに少し面映ゆい感じのする日取りである。当時(今でもそうした職場はあるのだろうが)、働く女性の出産・育児には厳しい時代であった。8月に分娩した母は、11月には職場に復帰しなければならなかった。当時、0歳児を預かる保育所は地域に存在しなかった。他県から移り住んだ父には頼れる親戚も無い。母の姉が二人、結婚して隣町に住んでいたが、やはり子育ての真っ最中で私を預かることはできない。隣町にある母の実家でも、四女の母のために祖母が家を離れ、私の世話をするというのは難しい状況だった。生後3か月にして、私は育ての親を失うという危機に直面していた。
そんな折、救世主が現れる。母の先輩教諭だった。長身で声の大きな英語教師だが、非常に気さくな方で、ど田舎の育ちでどんくさく、更には天然もだいぶ入っている新人の母を、大層可愛がってくれたそうだ。様々な相談に乗ってくれ、何と婚姻届けの提出にも付き添ってくれたという(父は何をやっていたのか)。詳しい経緯は不明だが、その先輩は専業主婦である自分の妻と、同居している妻の母で、私の世話を引き受けてくれるという。私は、その奇特な夫妻に救われたことになる。
その11月から、母がこれまた速攻で妹を妊娠し出産するまでの約1年半、私はその夫妻のアパートで育てられた。朝、自転車で送られて行き、夕方迎えに来てもらうまでをそこで過ごした。1歳を過ぎる頃には大変その家庭に馴染み、その先輩を「パパ」と呼んでしまったりしたそうだ。当然ながらこの0歳から1歳ちょっとまでの記憶は、全く残っていない。そして妹が生まれ、流石に自分の子と他所の子4人を同時には面倒見るのは難しい、ということになり、その生活も終わりを迎えたのだった。
さて、今度は誰が二人の世話をするのか。母の兄弟や親戚も入って、かなり揉めたらしい。父親が「身寄りのないお婆さんを探してきてベビーシッターとして同居してもらう」という案(今聞くと突飛に感じるが、当時実際にそういう家庭が近所にあった)を出すと、祖母が「そんなんだったら私がその役をする」と言い、すると伯母たちが一斉に「かあさんは実家にいないとダメ!」と反対した。母たちにも親戚からの苦言が飛んだという。結局、折衷案のような形で、祖母が月曜から土曜までを私たちと暮らし孫の世話をする、土曜の夜から日曜までは実家に戻る、という二重生活を送ることで落ち着いた。母の兄と弟が味方をしてくれたこと、最後に「今回ばかりは私のしたいようにさせてもらいたい」という祖母の一言が決め手となったそうだ。
祖母は、後妻に入った人だった。母より上の兄弟5人は亡くなった前妻が生んだ子供たちであった。祖母は新婚早々に戦争で前夫を亡くし、その数年後に祖父と再婚した。ほどなく母と叔父を産んだが、母が3歳、叔父が8か月の夏、夫を亡くした。死因は過労だったという。結婚生活は10年に満たなかった。その後祖母は、女手一つで、小さな畑を耕し、家業の木炭の卸売りと様々な肉体労働(工事現場が多かったらしい)とで、兄妹7人を分け隔てなく、どちらかというと実子に厳しく育て、世に送り出していった。生活は困窮、多忙を極めたらしく、母の世話はもっぱら伯母たちの役目であり、叔父にいたっては子守りと称し紐で柱に繋がれていたこともあったらしい。生活を支えるのに精一杯だった祖母は、母や叔父の面倒をまともにみることはできなかったようだ。そんな怒涛の十数年が過ぎ、一番上の伯父を残し、兄妹たちが結婚や就職で家を去った時期に、私たちが生まれた。
不自由な(伯父は手足に軽い障害があった)未婚の兄を残して家を出てほしくない、という伯母たちの不安も、あまり世話もできなかった娘の生んだ子を、今度は自分が育ててやりたいという祖母の気持ちも、大人になった今は、痛いほどわかる。一方で幼い頃は、何故自分の家庭にこの祖母が住んでいるのか、しばしば疑問に思ったりもした。祖母は私に厳しかった。火遊びをしても、妹と喧嘩をしても、叱られるのはいつも自分だった。4歳のころ、近所の女の子の家で遊んでいるとき、大地震が来た。昭和53年、宮城県沖地震である。倒れこんでくる玄関先の自転車から我々を庇い表通りへ逃がしてくれたその子の母の表情、見たことのないぐらいに波打っていた電線、そして家から飛び出してきた祖母が怒ったように自分の名前を呼び続けていたこと、それらは焼き付けられたように、記憶の欠片としてある。
話を戻そう。行方不明になった2歳の私が保護されたのは、1歳までを過ごしたあのアパートだった。家を出たときの心境は記憶にない。だが前述の地震の記憶と同じように、夏草の揺れる土手を歩き、そこから車の沢山走っている県道へ出たこと、赤い橋を渡り、坂を下ったこと、これら記憶の断片は今もなお鮮やかだ。
アパートに辿りついたものの部屋がわからずに呆然と立ち尽くしていると、傍の車の下から猫がこっちを見ている。当時、私にとって猫は怖い生き物だった。思えば犬も怖かったのだが。猫に見据えられ緊張していると、「あら、しゃーちんちゃんじゃない、どうしたの」と、確か東京生まれでこの辺の小母さんたちとは一線を画す垢ぬけた感じの声がかけられた。振り返ると、ドアの前にあの奥さんが立っている。「猫を、見てた」とだけ答える私。連続して憶えている景色だ。そして、ここで途切れる。他の人は、誰も見ていない、そして誰からも聞いていない、最古の私の記憶である。
突然妹が生まれ、そのアパートを離れることになり、祖母と暮らすことになった2歳の私。思えばこの事件は、2歳なりの家出だったんだろうと、だいぶ後になって感じたりもした。そのことを祖母に話すと、祖母は少し哀しそうに笑った。だから祖母に「あれは大変だった」と言われても、私からは何も話さなくなっていった。そんな祖母も、7年前の6月に95歳で他界している。その3か月後に生まれた末娘には、祖母の名前から二音もらって、名付けた。