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泣いていたら分からない『ミュウツーの逆襲』①

この映画におけるアイツーの意味

まず初めに断っておきたいのは、今回はこの映画の冒頭20分(以下アバン)と終盤20分(以下ラスト)についてしかほぼ触れません。なぜなら『ミュウツーの逆襲』はこのアバンが問題提起、ラストがそれに対する結論を提示する形になっているからです。逆に間の60分は普通のポケモン映画らしい冒険活劇としてバランスをとっているところがまず一番初めに触れておかなければならないこの映画の特異な点です。
さて、そのアバン(しかも20分と映画の1/5の長さ)では、なんとサトシやピカチュウは登場しません。子供たちはアニメの延長線上にあるポケモン映画にはサトシやピカチュウとその仲間達を見に来る訳ですが、この映画はそうはさせてくれません。20分間ひたすらなんだか分からない哲学的な問いかけと薄暗い映像を観せられることになります。アバンの最初のワンカット、初めの台詞から「TVシリーズとは違う雰囲気の何か」を予感させる作りになっていて、個人的な意見を言わせてもらうならTVアニメの劇場版はこうあるべきだと強く主張したいです。


さて、このアバンではミュウツーが生まれてどのようにして今に至るのかが描かれます。そしてその中に主題のキーパーソン「アイツー(またはアイ)」が登場します。
ミュウツーはミュウのまつ毛の化石から培養されてフジ博士によって作られたクローンのポケモンです。フジ博士は交通事故で死んだ娘アイをどうにか生き返らせるために遺伝子の研究をしていました。そこに永遠の命を持つと言われているミュウのまつ毛の化石の発見により、「ミュウツーの作成」と元々の研究である「アイの復活」を同時進行させており、「ミュウツーの作成」が結果的に「アイの復活」に結び着くと信じて研究をしていた訳です。
フジによれば

「私がこの研究を続けているのはポケモンのコピーだけを作りたいわけではない。」「ミュウは世界一珍しいと言われるポケモンだ。伝説によれば、永遠の生命力があるとすらいわれている。そんなミュウのコピーを作って、その命の謎が解ければアイもミュウのように強い命を持てるかもしれん。アイ、オマエには大人になっておばあさんになるまで私と生きていっしょにいて欲しい。生まれること、生きることは素晴らしい。だからアイ、私はアイに戻ってきてほしいんじゃ」

と語られます。
さらっと語られていますけど、これは要するにアイの死体の一部だかをストックして死人のクローンを作ろうとしてるって事になります。狂気です。
そんなマッドサイエンティストのフジ博士はこの研究のせいで妻にも出ていかれ、娘と妻を失った悲しみを埋めるためアイツ―という肉体のない電子データを作って慰めを得ている、とても悲しいキャラクターです。
また、フジ博士にとってアイツ―は未完成品であり、アイの生きている肉体こそが存在の価値であると考えているということが分かります。彼の目的はあくまでアイツーではなく「アイの肉体を取り戻す」をことです。

ここではミュウツーの試験管とアイの試験管とは隣に並べられている様子が描かれていますが、ここの描写は面白いです。

ミュウツーの試験管はオレンジ色の水にケーブルを付けられた小さなのミュウツーが培養されているのに対して、アイの試験管は水もケーブルも入ってないただのホログラフが浮かんでいるだけなのです。
これを観て、初めてミュウツーのデザインのモチーフは「胎児」だということに気が付きました。その胎児であるミュウツーの入っているオレンジ色の水は羊水で、ケーブルはへその緒、つまりこの試験管は「胎内」を表しているのが分かります。実際の羊水の色もこのようなオレンジ色であるようで、『エヴァンゲリオン』のエントリープラグの中に満たされている生命のスープと呼ばれれる「L.C.L」もこれと同じです。つまりポケモンであるミュウツーは哺乳類の胎児のような肉体を持つ生き物として描かれています。
では、それに対しアイはどうでしょう。アイは何もない試験管の中にフジ博士曰く「アイの意識パターンを電子的に再現したホログラフ」がぼうっと浮かんでいるだけなのです。つまり元々人間であったはずのアイは反対に無機質な作られた電子データとしての存在であることがわかります。
ここから「生き物と生き物でないもの」「人間とポケモン」「本物と偽物」の違いとは何なのかという、本作のテーマが浮かび上がってきます。

試験管の前でミュウツーについて話すフジ博士の会話を、産まれる前のミュウツーの意識から彼の独白が始まります。

ミュウツー「誰かが僕の話をしている。でも何を言ってるの?」
アイツ―「あれって言葉なの、人間の。」
ミュウツー「誰?キミ?」
アイツー「人間。でもあなたと同じみたいな存在。」
ミュウツー「人間?僕も人間?」
アイツー「お話できるんだから人間かもね、それとも、私がポケモンだったりして。」
ミュウツー「人間?ポケモン?なにそれ?僕、どっちなの?」
アイツー「どっちでもいい。あなたも私も同じみたいなもの。ここには同じようなみんながいるよ。」(フシギダネツー・ゼニガメツー・ヒトカゲツーの声)

テレパシーによりアイツ―とミュウツーとフシギダネツー・ゼニガメツー・ヒトカゲツーが交信していますが、これは後にも登場するミュウツーのテレパシー能力により他の4人の意識とを繋いでいるのだと思います。会話は続きます。

アイツー「私たちはみんなコピー。だからワンじゃなくてツー」
ミュウツー「じゃあボクもツー?」
アイツー 「私もアイツー。ほんとの私はアイ。」ドラマCDではこう続きます。
アイツ―「ほんとのアイじゃなくて、アイの2。ううん、もしかしたら私は3。アイスリーかもね。なんかステキでしょ?だって、本物じゃなくったって、アイツーだってアイスリーだって、アイフォーだって構わない。私もみんなもミュウツーもちゃんとここにいるんだもん。コレって絶対ステキでしょ?」

というようにアイツーは「アイ」という意識がある限り、自分が何番目であろうと自分が「アイ」であることを認識していて、そのうえでそれが生きていることであり、ステキなことであると分かっている訳です。まだ「ここがどこ」で「私は誰」であることが分からないミュウツーとは違い、アイツーは自己存在についての価値をすでに見出しています。


アイツ―は記憶の中にあるアイが生まれて育った場所を始め、太陽、風、夕焼け空、星、月とこの世界を構成しているあらゆる物をミュウツーに教えます。これはアイツーが全てが始めて見るものであるミュウツーの母親代わりをしようとしてる描写です。女児における特有の行動ですが、いままで母親にされてきた施しを自分より年少な存在に同じ施しをすることによって疑似的な育児、母性の再生産が行います。これはおままごとや、お人形遊び、女児向けのアニメにおいて主人公に弟や妹や赤ちゃんが登場するでも分かると思います。実際に意識が生まれる前のミュウツーに対し「なんて可愛い!これがミュウツー?ねぇ、私この子のママになってもいい?お姉さんになってもいい?私、こんな子がいるなら生きていていいなぁ。」という台詞もありました。

そんな中、テレパシー世界でのフシギダネツー・ゼニガメツー・フシギダネの存在が次第に消えていきます。研究員のその際の台詞で「やはり今回も失敗か」というようにどうやらこれが始めてでないことは分かります。
つまりコピーである彼女らは作られ続け、その度消滅するというトライアンドエラーを繰り返してる中で、しかし生まれては死に続ける彼女らはそれでも存在しているから生きていると言うのです。
そんな消滅する彼女とミュウツーの会話続きます。
ミュウツー「アイ? 答えてアイ? 何があったの?」
アイツー「なんだか、お別れが近づいたみたい。ミュウツー、生きてね。
生きているってきっと楽しいことなんだから」
ミュウツー「ボクの目から何かが…これは?」
アイツー「涙」
ミュウツー「涙?」
アイツー「生き物は、体が痛いとき以外は涙を流さないってパパが言ってた。悲しみで涙を流すのは人間だけだって。ありがとう。あなたの涙。でも泣かないで。アナタは生きるの。生きているって、きっと楽しいことなんだから。」
ミュウツー「アイ、とまらないよ涙。どうしたらいいんだ。アイ、答えてよ…」


ここでミュウツーは涙というものを知ることが出来ます。アイツー曰く、「生き物は体が痛い時以外は涙を流さない。悲しみで涙を流すのは人間だけ」ということらしいです。ここでいう生き物は生きとし生けるもの全てという意味ではなく、動物など「人間以外の生き物」という意味です。つまり
人間ではないのに涙を流すことの出来るミュウツーは一体なんなんだろう。
これがこの物語においてミュウツーがずっと考えている「私は誰だ」という問いの原点なのです。


このシーンはミュウツーの産まれる前の記憶、胎内記憶(実際に持っている人もいるようです。)ということでいいと思います。そしてこの記憶をミュウツーが思い出すという描写は出てきませんが、しかし、潜在意識下の記憶としては残っていきます。

そしてモノローグは続き、
ミュウツー「長い、長い間眠っていた。アイのことも、ここで作られたポケモンのことも。何もが眠りの向こうに消えて行った。そして…」
とミュウツーの声はあの市村正親の声になっていきます。

こうしてアイは何度目か分からない死を遂げ、ミュウツーは生きることを課せられてしまいました。そして難しいのが、この映画ではもうアイツーは出てこないのはおろか、何一つ言及がされないんです。
ではなぜ、この映画にアイツ―というキャラクターは必要だったんでしょう。まとめると、

・潜在意識下にある疑似的な母親との胎内記憶

・「ここはどこだ」「私は誰だ」「なんのために生きている」というこの映画で何度も出てくる問いの問題提起

・ミュウツーに涙について教えてくれる役割

という点であると考えました。

以上が①この映画におけるアイツーの意味です
次回は②「ここはどこだ?私は誰だ?」の意味について書きます。

本当はまだ解説していないところもあるのですが、必要に応じて、その時補足したり、ここに追記したりするかと思います。
さて、まだ本編の再生時間が10分しか進んでいません。つまり、それだけこの映画はちゃんと観れば深く掘れる映画である訳です。色んな意味で「よくポケモンでこんな映画作ったな」というのが僕の『ミュウツーの逆襲』に対しての正直な感想です。
何回に渡るかまだ不明ですが、出来るだけ分かりやすく面白く『ミュウツーの逆襲』について考察してみたいので、最後まで付き合ってくれると幸いです。


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