デザインと倫理と進化の覚書
(クソ長いです。怠惰ゆえに数時間でばばばと書きたいのでこうなる😭私のための覚書なので「長い、読めない」という人にはすみません)
倫理は利他性の進化や協力に結びついて進化人類学・進化心理学の話題にのぼることがしばしばある。あまりに重要なのでひとつのジャンルとして進化倫理学とよぶこともあるようだ。
私は進化心理学全般にはまだ踏み込めておらず、この本は読んだことがないが、↓のshorebirdさんの、相変わらずものすごくためになる、あたかも自分が読んだ気になれる書評を片手に、なるべく倫理には触れずに(知識が足らず、触れられないのでしょうがない)デザインと倫理と進化、とくに生物進化と文化進化についての今のところの理解と私見をメモしておく。なんか変な記述があったらぜひ教えて下さい…。
さて、冒頭のツイートとそれに続くツリーで藤崎先生は生物進化とデザインの違いは倫理の有無だと述べている。前者に倫理はないのに対して、デザインは「こうあるべき」という善を定義する倫理学と切っても切れない関係にあるとしている。そしてツリーの最後に「議論すべき」とあるので、それに乗っかって、藤崎先生とは異なる私の考えを順を追って説明してみたい。
生物進化に倫理はないか
人間は生物であり、人間は進化の産物であり、倫理は人間の産物なので、生物進化があるから→人間があり、人間があるから→倫理があるということには議論の余地はないと思うので、おそらく「(倫理を生み出してからの)人間以外の生物」を意図したのだと思う。また、この記述は「倫理は生物進化の産物ではない」という意味ではなく、「生物進化のプロセスにおいて倫理的なフィルタは働かない」という意味であると解釈してすすめる。
つぎに、「生物に倫理はない」というのと「生物進化に倫理はない」というのは別の主張だ。前者は、私の理解だとおそらく検証すらできない。この文章の主旨からは外れるが、少しだけ寄り道しておくと、動物間でしばしば観察される強制性交sexual coercionはしばしばこの最たる例として取り上げられる。
この現象は人間に無理やりあてはめれば強姦rapeなのだが、動物間での合意の有無を人間と同じ確度で測定することができないため、「本当のところはわからないが、ふるまいから・被害度合いから明らかに一方的な性交にみえるな」という行動を、人間のそれとは別のものとして扱うのだと理解している(たぶん。違ったらご指摘ください)。このような「残虐な」「非人道的な(非動物道的な?)」行動を非倫理的であると判断するかは保留するのがまあ賢明であろう。なので、この生物のこの行動は倫理的かを測定する手法も理論も我々はまだ持ち合わせていない。
いっぽう、後者の「生物進化に倫理はない」=「生物進化のプロセスにおいて倫理的なフィルタは働かない」というのはもう完全にそのとおりだ。完全にそのとおりなのだけど、これも考えようによっては例外がある。たとえば倫理的な理由でブルドッグの繁殖を禁止した場合、
(人間様による都合だが)倫理によって対立遺伝子の頻度が変化しているので、倫理によって生物が進化している=生物進化のプロセスにおいて倫理的なフィルタが働いていると言わざるを得ない。そのため「生物進化に倫理はない」という記述は、「人間以外の生物の、現代の人間による介在のない進化のプロセスにおいて倫理的なフィルタは働かない」とまで絞れば私も同意する。完全に重箱の隅つつき作業だが、このあたりを明確にしないとこのあとの議論ができないため、御海容を。
デザインは倫理とともにあるか
この記述は続くツリーで何度か異なった方法で言い換えられているため、おそらくこういう主張だろうという私の理解をまとめる(「誤読」していたらご指摘ください…)。
人間によるデザインは、より良い未来を創ろうとする創造行為とここでは定義する
そう定義すると、デザインと生物進化は似ていない
また、こう定義すれば、デザインは常に倫理と共にある
人間のデザインにデザイナーの意思が関わることはないなどと考えるのは、デザイナーはなにかをデザインする際に倫理のことを考えなくていいということだ
これらひとつひとつを検討してく。
デザインはより良い未来を創ろうとする創造行為なのか
定義は定義した人の自由だし、この定義じたいが無理のある定義だとは思わないので、これを問うても仕方ないといえば仕方ないのだが、私の見解とは異なるため、この定義を出発点に、次のように私の考えと混ぜて、歪めていく。私としてはこの歪め方が説得的になるように意図しているが、そのように感じてもらえるかは人によると思う。
人間によるデザインと人間以外の動物によるデザインはたしかに大きく異なるが、その差と類似性を考えることは人間によるデザインを進化の観点から考えるのに有用だ
ここで人間以外の動物によるデザインとは、動物の周囲の環境を加工してつくられる「延長された表現型」、たとえばビーバーによるダムとか、鳥の巣とか、チンパンジーによる石器などのことをさす
これらは純粋に自然選択によって形成された適応だから、進化の結果である
そして、これらが彼らにとってより嬉しい(ご飯がたくさん食べられたり、配偶者がみつかったり)結果につながる行為であることは認められても、より良い未来を創ろうとする創造行為ではないということは受け入れてもらえると思う
ひるがえって、人間によるデザインには色々なものがある
少なくとも登場当時は延長された表現型であったといっていいのではないかと思うもの:石器、鋤、言語、大昔の家、止血帯。ワクチンなどもおそらく
延長された表現型ではないもの:現代の建築家にとっての現代の建築、デザイナーにとっての現代のデザイン。ワクチンなど例外はあれど現代のデザイナーにとっての現代のデザインがほとんど延長された表現型でないのは、その出来がその人の生存や子孫の数を左右しないからだとDawkins(Dawkins, R. (2004) Extended Phenotype – But Not Too Extended. A Reply to Laland, Turner and Jablonka)はいう。スター建築家がその優れた建築によって、平凡だが食い扶持には困っていない建築家がその平凡な建築によって得る利益よりもたくさんの利益を得るから目に見えて長生きする、ということはない。私の論文もどうぞ
逆に、延長された表現型の逆(いい表現がないのだが、有害な延長された表現型でよいのだろうか):リリエンタールのグライダー、パトリック・デ・ガヤルドンやフランツ・ライヒェルトのウイングスーツ、ロイ・レイモンドのヴィクトリアズ・シークレットもおそらく。これらのデザインはすべてそのオリジナルのデザイナーを殺したためだ
より良い未来を創ろうとする創造行為:ヘロイン、原爆、計画的なジェノサイド、神風攻撃。より悪い未来を創ろうとする創造行為:ヘロイン、原爆、計画的なジェノサイド、神風攻撃
修士1年時に履修した園芸学部の授業での「Xをよくする1. 最良の案と2. 最悪の案を提案せよ」という課題に、私は1.と2.で全く同じ案を提出した。まず1. 最良だと思う案を説明し、それはある面からみれば最良だと私は思うけど、よく考えたら市民には2. 最悪であって、こういう授業で学生が無邪気に提案するありがちな案は、本人は最良と思って提案しているが実現したら悪夢だ、と
ヘロインはバイエル社という高名な製薬会社の開発した非常に高性能な鎮痛・咳止めの万能薬である。タバコはインディアンの開発した人をリラックスさせる交易品で、聖なる行事や部族間の条約締結後に交わされるパイプセレモニー用の儀式具でもある。アルフレッド・ノーベルはダイナマイトを開発すれば戦争というものをこの世からなくせると考えた。ガトリングさんもガトリング砲で戦死者を減らせると考えていた:
アインシュタインは戦争を終わらせるため原爆の開発を大統領に進言した(そのあと反対したけど)。ホロコーストを計画したヒムラーもヒトラーもより良い未来を創ろうと思っていただろう。ポルポトは、本人を知る人によると善人の中の善人だったとどこかで読んだ
ホバークラフトは水陸両用の夢の交通手段とされ、イギリス政府の援助のもと盛んに開発された。軍用の小さなもの以外は絶滅した。Langrish (2004)も、意図の反映が設計だというラマルク的な設計の捉え方の反証としてコンコルドとともに挙げられている:
ヘンリー・コットンという高名なアメリカの精神科医は歯を抜けば精神疾患が治ると信じ、実行した:
グラハム・ベルは手話教育に反対していた:
神風攻撃については…アルカイダに聞いてください…私にはよくわかりません…
「悲劇的なデザイン」は主に怠惰が生んだバッドなデザインを紹介するが、良かれと思ってした行為が悲劇を生んだ(フロリダ州の投票方式とか)例も紹介されている。
このあたりでもう私の言いたいことは伝わっているのではないかと思う。より良い未来を創ろうとしている個人または集団の創造行為は、他の誰かのより悪い未来を創り出すことがある
これは単に「デザインはユニバーサルな善・倫理とともにあるわけではない」と言っているにすぎないが、より良い未来を創ろうとする創造行為という字面からだけでは「よさ」しか伝わらないと思う
なぜなら、自然により良い未来を創ろうとする創造行為の帰結はより良い未来であると想定してしまうからだ
なぜこんな区別をしようとしているのか?というと、作り手の意図はしばしば実現せず、伝わらず、想定の反対の帰結を生んだりするからだ。「いま俺はデンタルフロスの歌を歌ったが、お前の歯はきれいになったか?(フランク・ザッパ)」また作り手の善意の意図?それは善意?(精神疾患を得た可哀想なあなたの歯を抜いて治してあげよう)が、その影響を受けた人には悪でしかなかったりする
身の回りのデザインはさまざまな試練を乗り越え競争に勝ち、stand the test of timeした、まあ優れたデザインであると言っていい。そしてその大半は、それがなかった昔よりよい現在の創造に貢献してくれているので、身の回りのものを見れば、デザインってのは素晴らしいなあ、我々の色々を改善してくれてるなあ、創り手はよりよい未来を創ろうと意図して創造してくれたんだろうなと思うのは仕方がない。のだが、ペトロスキーが言うように、いま残っているデザインより、それに負けたり、価値を喪失して使われなくなった失敗したデザインのほうが圧倒的に多いと考えるべきだ
藤崎先生が真に何を意図したのかはわからないが、ここまでの私の考えから、次のように読み替える:
ある人がよかれと思ってより良い未来を創ろうとして、結果たまに一部の人にとってはそのとおりになるがたいてい悲惨なことになる、人間による創造行為をデザインと定義している
こうすれば、この記述から暗黙に私がどうしても感じ取ってしまう「高みに向かうコンセプト」感をバランスすることができ、個人的にもぎりぎり受け入れることができる定義になる
人様のしたデザインの定義を無理やり自分の受け入れられる領域に引きずり込んで歪めてまで何をしたいかというと、「よかれと思ってより良い未来を創ろうとして、結果たまにそのとおりになるがたいてい悲惨なことになる、人間による創造行為」と生物進化に関係はあるのか、ということを次で論じたいからだ
補足1:私には、よかれと思ってより良い未来を創ろうとしているもののみをデザインとすべきか、にも疑問がある。のだが、あまりに長くなりすぎるので今回は飛ばします…
補足2:またこの定義は、私のしばしば使うデザインの定義とは大きく異なる(「デザインは、非遺伝的な方法で人から人に伝達されたり学習される情報のうち、人工物の仕様に関するもの」)が、今回はこれを持ち出さずに議論できるのでこのまま突っ走る
デザインと生物進化は近似していないのか
「ある人がよかれと思ってより良い未来を創ろうとして、結果たまに一部の人にとってはそのとおりになるがたいてい悲惨なことになる、人間による創造行為」は生物進化に似ている。ここは…説明するぅ…?いいよねえ…?さすがにここまで定義を歪めれば、そしてあなたにとって私がここでした歪め方が説得的であれば、受け入れてもらえると思う。逆に、この定義の歪め方が恣意的でオリジナルの定義とは全く違うものになっていてデザインのエッセンスを致命的にとりこぼしているとお考えであれば、この考えは受け入れてもらえないだろう。私はこっちのほうがいいと思うのですが、いかがでしょう。文化進化はいいぞ。
デザインは常に倫理と共にあるのか
ここまで定義を歪めて牽強付会してきたが、いったん変わり果てたバージョンではなく初期値に戻って抜き出してみる。
人間によるデザインは、より良い未来を創ろうとする創造行為とここでは定義する
こう定義すれば、デザインは常に倫理と共にある
私は倫理全くわからないのですが、倫理=より良い未来を創ろうとすること、なのであれば、この定義を採用するなら、定義より自明である。しかし、私のバージョンの、変わり果てた定義を使うとそうではなくなる。ある人がよかれと思ってより良い未来を創ろうとして、結果たまに一部の人にとってはそのとおりになるがたいてい悲惨なことになる、人間による創造行為の産物にはヘロインが含まれ、私はヘロインの製造は(ごく一部の正当な(ここに価値判断を含む語を使ってはいけないのだが…)医療行為のためのものを除き)非倫理的だと思うからだ。ある人が「よかれと思っている」ことや、その結果「ある人が良かれと思って行った歯抜き行為が、その人の頭の中では意図したとおりのものになったこと」はごく局所的に倫理的といえ・・・なくもない・・・?が・・・。
デザインは常に倫理と共にあるべきなのか
ヒュームの自然主義的誤謬によると、価値判断を決定する前提を持ち出さずに、「である」をいくつ重ねてもそれらだけから「であるべき」は導き出せない(冒頭の書評によるとこれもまた議論の対象らしいのだけど、私には手に負えないので跨いで通る)。そして私には、藤崎先生の論は、この2つを切り分けていないように思える。
私は、私でない人がものをつくるときに、私のバージョンの倫理に則ってつくることを期待する。これだけでは単なるわがままであるが、この利己的な意図の集合が藤崎先生の言うところの「まだ良いとも悪いとも決められないものをどちらが我々にとって良いことかを決める」、ということは受け入れていただけるのではないかと思う。しかし、私の見る限り、現在のデザインという行為は「まだ良いとも悪いとも決められないものをどちらが我々にとって良いことかを決める」プロセスを必ずしも経ていないし、経ないと成り立たないわけではないし、経ていても少なくとも私のバージョンの善悪の基準とは必ずズレがある。なので、デザインと倫理は残念ながら常に共にはないが、デザインと倫理が常に共にあるべきだ、ということはできるだろうし、後者の実現も「まだ良いとも悪いとも決められないものをどちらが我々にとって良いことかを(多数決かなにかで無理やり一定時間内に)決める」プロセスを挟めばいいだけなら不可能ではない。それでいえば晴れて原爆も倫理委員会の認証プロセスを通ったcertified ethical weaponである。
私も、うん、まあデザインは常に倫理と共にあるべき、なんじゃない…?ないよりはいいんじゃない?とは思うのだが、その倫理が(私の観点からみて)暴走しないといいですね、よく暴走してますよね、イスラム国とかMAGAとか私嫌いですよ、とも思う。やはり「僕のバージョンの倫理じゃなきゃヤダヤダ」という気持ちはずっとあって、「であるべき」を論じ始めるとどうしてもこの罠に陥らない?と思っているのですが、このへんはどうなんでしょうね。
デザインの理学(デザインを知る、デザインのメカニズムを探求する)とデザインの工学(よりよいデザインを計画したり実現したりする、ある人の欲望を満たすデザインを計画する)は別の行為だ。この文章では基本的にデザインの理学的な側面にフォーカスをおきたい。その立場からすると、倫理はたしかにデザインの行為にもその成果にも影響を及ぼしているけれど、そうでない場合もあるし(私の定義の場合)、デザインを淘汰の単位としてみると、デザインの立場からすればごく一部の環境要因にすぎない(これは微妙に太刀川さんのリプライに近い立場だが、まあよく読むと違う。「私のほうが先にそれ言ってますよ」みたいなつばつけ合戦してもしょうがないし彼が私のような泡沫文化進化学徒の書いた文章を確認していることを期待するわけではまったくないので学会発表では全く触れていないが、意図をそこまで織り込んで論じる必要ないんじゃないの、というのは先述の2016年論文に加えて2017年に学会発表してるし一般向けの講演もしているし、それのもととなったのはLangrish2004だったりKauffmann1995だ。太刀川さんは自分が思いついたように書いているように私には読めるが、実際は違う)。
一般向けの私の博士論文の内容の講演はこちら。37分とか48分くらいにその話をしているがそこだけ見ても理解できない↓
この本の1割も理解していないが、もうとにかくこのパラグラフがかっこよくて好きだ。舐めるように読んでしまう。
人間のデザインにデザイナーの意思が関わることはないなどと考えるのは、デザイナーはなにかをデザインする際に倫理のことを考えなくていいということなのか
以上のことから、私はそうは思わないし、この文章の前後には繋がりがないと考えている。
建設的(あっまた価値判断を含む言葉を使ってしまう)指摘、批判、コメントなどお待ちしております tw @minoru_matsui DMでもリプライでもなんでも
藤崎先生、横槍いれてしまいすみません。先生のツイートでたくさん考えることができ、頭がウニになり大変感謝しております。失礼にあたる表現などあるかもしれませんがどうかご容赦ください。