「好きのおすそわけ」とは何か(コルクラボ文化祭の感想)
以前在籍していた、コルクラボの文化祭に行ってきた。
懐かしい人、馴染みの人、初めて話す人、いろんな人に会えて楽しかった。久しぶりのイベント参加なのに、居るのが当たり前みたいな気持ちになってる自分が、ちょっと不思議だった。
コルクラボには「好きのおすそわけ」という考え方がある。
在籍してた頃、この考え方がピンとこなかった。好きを積極的に共有する行為に、なんだか押し付けがましさを感じていたからだ。好きなことは粛々と好きな人同士で楽しめばいいのではないか。
文化祭に行って、今更ながら「好きのおすそわけ」が分かった気がした。
「珈琲話会」というイベントに参加した。
コーヒーの飲み比べを楽しみながら、同じテーブルを囲んだ人と談笑をするイベントだ。
心地が良かった。
テイスティングする時間、味の違いについて語り合う時間、談笑する時間。各々の配分が実に適度だ。忙しくもならず、手持ち無沙汰にもならず、とても過ごしやすかった。
テイスティングのコーヒーをおく紙も、ちゃんとデザインされていて、「珈琲話会」というネーミングのゆるさとは裏腹に、設計全体の丁寧さを感じた。
最後に、イベント主催者が今回のイベントについて話をする時間があった。
これがとても印象的だった。
トークがなんともゆるい。イベントの丁寧さとは対照的に、準備されていないふわっとした雰囲気。
もし、ぼくがこのようなイベントを開いていたならどうだろうと考える。おそらく、ここが腕の見せどころとばかりに、思いの丈をしゃべり倒しただろう。
なるほど。
「好きのおすそわけ」とはこういうことなのかとと思った。
「好き」の感情は強い。
強いから、そのままのテンションで伝えると押し付けがましくなる。
「こんなに好きなのに何で分かってくれないの?!」
「ぼくのこと好きじゃないの?!」
好きが依存性を強めるとこうなる。
強くせまらないと「好き」そのものが消えてしまう気がして、伝える力で好きを保たせる。
「好きの押し売り」だ。
一方で「おすそわけ」の響きはとてもゆるい。
「多く作りすぎちゃったから、良かったら食べて」というご近所さんの言葉に、メッセージ性はない。
「好きのおすそわけ」とは、
「好きが有り余っちゃったから、ここに置いとくね。良かったら使って。」という態度なのだ。
わざわざトークで手渡しして回る物ではない。
「気持ちの強さは丁寧さに宿り、伝える態度は緩やかに。受け取るかどうかはあなた次第。」
このような慎ましやかな態度で生きたいものだ。