つづき2
屋根の瓦にとまったスズメを狙った実演以外に、父がこの空気銃を発射したのを1回だけ覚えている。
それは、夜で、家の玄関から、暗闇にいる野犬に向けて撃ったのだ。
その当時は、まだ東京にも野良犬がたくさんいた。飢えた野良犬が、残飯や飼い犬の残したエサをねらって、民家のまわりをうろついていた。気が立っているので、子どもに噛みついたり、群れて人を襲うこともあったと思う。狂犬病もまだ撲滅されていなかったので、野良犬は、それなりに恐い存在だった。
そういえば、だからということになるだろうが、「犬殺し」という人がいた。幼い子どもにとって、人間で恐いのは、「人さらい」と「犬殺し」だった。
「犬殺し」というのが、ちゃんと職業として成立していたとは思えないが、もう少しおだやかな表現をするならば、〝野犬狩りのおじさん〟といったところか。保健所の委託を受けて、報酬を得て野犬を狩っていたのか、狩った野犬をどこかに売ることで収入を得ていたのか、いまとなってはよくわからない。
子ども時代に観た「101匹わんちゃん」というディズニー映画には、独特の捕獲具を使ったアメリカの野犬狩りのおじさんが登場するが、私にとって日本の「犬殺し」は、もっとおどろおどろしい存在だった。
一度だけ、母から「あれが犬殺しよ」とこっそり示されたのは、東急世田谷線・宮の坂の近所で見かけた、巨大なリヤカーに肥え桶のような木樽をたくさん積んで引いている男だった。
肥え桶のような木樽は、木の蓋で塞がれ、中は見えなかったが、その中に野犬が詰められていたのだろう。
「犬殺し」と呼ばれていたのだから、おそらく、野犬を撲殺し、その死体を桶に詰めていたのだと思う。母に教えられて、しばらくその桶の蓋を凝視していた。もしかすると、蓋が持ち上がったり、犬の泣き声が聞こえるのじゃないかと…。しかし、母は声をひそめてあまり見ちゃだめだと、私の手を引いてその場から立ち去った。母は、超のつくほど犬・猫好きで、私もその血を受け継いで動物好きだったので、「犬殺し」の所業を想像するだけで、気が遠くなるほど恐ろしかった。
まぁ、そうした人たちのおかげで、現在のような、野良犬のいない、狂犬病のない、安全な環境が築かれたとも言えるのだろうが。
父の空気銃は、もちろん闇の中の野犬に命中しなかった。威嚇のために撃っただけだから、腕が悪いなどと言ってはいけない。それに、万が一、まぐれで当たったとしても、空気銃の弾では、キャン!と叫ぶ程度で、傷もしばらくすれば治ってしまう程度のダメージしか与えられないだろう。よほど当たり所が悪くて、目とか、喉とか、心臓とか、だったら、後遺障害があったり、場合によっては死に至ることもあるかもしれないが、もともと殺傷能力はあまりない銃だった。
その空気銃は、やがて私が高校生になって、高校の文化祭で、飾り付けのために他のモデルガンなどと一緒に学校に持っていって、壁に掛けられた。高校の男子などというものは、銃とかガンとなると、めちゃくちゃいじりまくって、私の持っていったおもちゃの銃は2~3日の間にすべて壊された。
とくに、その空気銃は、バカ男子が思いっきり中折れ式の中折れに力を入れたものだから、駆動部は鋼鉄製だというのに、ポキンと二つに折れてしまった。二つに分かれたその残骸を見ながら、「父の空気銃を…」という無念の気持ちにとらわれたが、必死に謝る友人に「いいよ、いいよ」と言って、逆に慰めたのを覚えている。
いまとなっては、とても珍しいものだっただけに、あれが残っていたら、と、とても残念だ。