なぜ素直に謝れないのか
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
(新約聖書・マタイによる福音書18章より)
すぐ謝ることができればそんなに大事にはならない
昨今、世の中のニュースを見ていて思うことがあります。それは、何か悪いことをしてしまったら、その場ですぐに謝れば、ここまで大事にはならないのに... ということです。
もちろんすぐに謝ったからと言って、やってしまったことの責任を免れるわけではないかも知れません。
しかし謝らないでいれば、誤解や摩擦は増えるばかりですし、謝らないために様々な理由を並べているうちに、問題がどんどん大きくなっていってしまうことでしょう。
そしておそらくそういうことは、問題を起こしてしまった当の本人もわかっているはずなのです。
でも、なかなか謝れない。
それはどうしてなのでしょうか。
謝れないのは赦された経験がないから
子どものときから、何かいたずらや失敗をした時に、叱られることはあっても、赦された経験がないと、謝ることができなくなります。
時々、「悪いことをしたら、謝りなさい」と教えつつ、子どもが謝っても、なおも小言を言い続けている親を見かけることがあります。
謝っても、その後に赦される経験がなければ、その子どもはそのうち謝らなくなってしまうでしょうし、謝っても口だけということになります。
また、なにかいたずらしたり失敗した時の、親の怒り方が激しく、子どもの心に傷が残ってしまっている場合も、謝ることができなくなります。
この場合、親から受けた心の傷(トラウマ/インナーチャイルド)があるために、失敗してしまった時に、叱られた時のトラウマが出てきて、パニックを起こしたり、思考停止状態に陥ってしまうのです。
どちらにしても、背景にあるのは「失敗が赦されない」という体験と、「叱られた時の心の傷」が原因となっているということなのです。
罪 = 事故
この世の中で起きているありとあらゆる不幸な出来事は、高次の視点から見ると、「事故」でしかありません。
人の魂は完全ですが、肉体はある意味で不完全な存在です。
魂には制限がありませんが、肉体には様々な制限があります。
その制限の中で、私たちは生き、生活し、制限のある者同士で出会ったり、交流したり、関係しあったりしているわけです。
私たちの肉体には、それぞれに得手不得手があり、様々な特性を持っています。それを個性とも呼んでいるわけですが、そういった得手不得手を持っている者同士が、出会って交流するわけです。
すると当然、自分が考えているようにはうまくいかないことも出てきます。
自分が得意なことであっても、相手は不得意かも知れません。自分にできても、相手にはできないこともあります。
それと同じく、相手にはできても、自分にはできないこともあります。
そういうわけで、何かしていても失敗するということは多々あります。
例えば、私のことを言えば、私は右手の中指と薬指が、うまく動きません。なので、右手で持っているものを落としたりしてしまうことが時々あります。しっかり持っているつもりでも、何かの拍子に意図せず落としてしまうということはあるのです。
お皿を洗っていても、たまに落として割ってしまうことがあります。
それで、先日は子どもの大事にしてたマグカップを床に落として割ってしまいました...。ごめんなさい。とっても怒られるだろうなと思いましたが、ちゃんと謝りましたが...。
気をつけていても、失敗してしまうということはあるのです。
その失敗が、小さなことならば、すぐに赦してもらえることでしょう。
しかし、意図せず大きな失敗をしてしまうこともあるわけです。
たとえば自動車事故。
いわゆる犯罪でも、小さな誤解が積み重なっていった結果、起きることもあります。
前回お話した「観念」の影響もあります。誤解や過去のトラウマなどの影響から観念の中身に問題があって、それによる思い込みから、事件を起こしてしまうこともあります。
意図的にしろ、意図的でなかったにしろ、これらはみな、制限のある肉体が原因で起きていることには変わりありません。
私たちが「罪」だと思っていることは、「事故」と変わりがないというのが本当のところです。
ただ、一人で事故を起こすのと、相手がいて事故が起きるのとでは、相手が居る分、感じ方が変わって来ます。
自損事故なら、なんてバカなことしたんだとか、残念だった、仕方がなかったで終わることでも、相手がいたら、その人に感情をぶつけたくなったり、その人に補償を求めたくなったりしてしまうからです。
「罪」というものの本質とはそういうものなのです。
七の七十倍赦しなさい
冒頭に引用したように、キリストは「七の七十倍赦しなさい」と教えました。
ユダヤの数秘においては、昔から七というのは「神の完全」を意味し、10倍する毎に、その意味が強調されるという性質があります。
七回赦すというのは、意味としては「完全に赦しなさい」ということになりますので、その10倍といえば、「無限に赦しなさい」といった意味にもとれるということなのです。
キリストがそのように教えたのは、罪の本質が失敗による事故と同じであることを悟っていたからです。
しかし、無限に赦し続けるなんてことが出来るのでしょうか?
赦すのではなく、すでに赦されていることを認める
私はここで、キリスト教の宣伝をしようと思っているわけではありません。
もし同じ話をブッダがしていたら、ここにはブッダの語った言葉を書いていることでしょう。
私はたまたまキリスト教の背景のある家に生まれ、大人になってキリスト教会の牧師になったという経験から、聖書に少し詳しいだけだからに過ぎません。
とあるチャネラーさんが、聖母マリアの言葉を語ったり、大天使ミカエルの言葉を語ったりするのと同じ感覚で、キリスト意識から来る言葉をご紹介しているだけです。
さて、無限に赦すためにどうしたらよいのかということについて、キリストは一つの答えを示しています。
それは「自分がすでに赦されている存在だということを認めることだ」と教えているのです。
キリストは、病人を癒したり、死人を蘇らせたりといった奇跡を行ったことが、聖書に記されています。その記述を読んでいく時に、興味深いことに気が付きます。
それは、キリストが奇跡を行う時の理由がはっきりと語られているということです。
病気を癒しても、死人を蘇らせても、それは一時的なもので、いつかはその人たちもまた死んでしまうことを、キリストは知っていました。だからキリストは、お情けで病気を癒したりといったことはしませんでした。もちろん癒しを求めてきた人には、癒しを施しましたが、人々を癒したり、助けたりすることを目的に活動していたわけではなかったということなのです。
キリストの目的は別のところにありました。それは「人々がすでに赦されているという事実を悟ること」だったのです。
だからキリストは、集まった人々に「私を信じるものは救われます」と教えました。そして自分がその教えを述べるだけの資格があるということを明示するために、癒しの奇跡を行ったのです。
普通の大工のおじさんが、あなたの罪は赦されていますと叫んでも、大抵の人は見向きもしないことでしょう。
でも死人を復活させられる人が、あなたの罪は赦されていますと言ったら、多くの人は納得するのではないでしょうか。
赦すとか赦さないという行為は、単なる自己満足
罪を犯した人を赦す、悪いことをした人を赦す、あるいは赦さないというのは、実は「裁き」の精神の上に立っています。
裁きというのは、裁いている相手より、自分を一段上の立場に置いて、距離を置いたり関わりを持たないようにしていることです。つまりとても自分本位で傲慢なことなんですね。
裁いている本人は気付いていませんが、裁きの裏には罪悪感が隠れています。実は人を裁いている本人が、自分で自分のことを裁いているに過ぎません。
人を赦せない人は、本当は自分を赦せないだけなのですが、それが外部に投影されているに過ぎません。
人を赦すとか赦さないということは、実は単なる自己満足であり、自分本位の行為なのだということなのです。
赦しとは高次の意識から与えられるもの
では真の赦しとは何でしょうか。
それは、高次の意識から与えられるものです。
高次の意識とは、例えば、
・恒久的な意識(ワンネス)
・ハイヤーセルフ
・内なる神
・キリスト意識
・霊的なガイド
・天使
・神聖な存在
etc...
などと呼ばれるもののことです。
そこからくる赦しを、ただ受け取るだけのことです。
赦しとは、太陽の光のように、すべての人に均等に与えられているものです。
例えば、地球は私たちを赦しています。よく地震や火山の噴火を、地球の怒りだと述べている人を時々見かけますが、地球は別に怒ったりしていません。
地球も生きている存在ですから、どこか体の具合が悪くなったりしたら、体調を整えるために、エネルギーの調整をしてバランスをとっているだけのことです。その時に、歪が元に戻ったついでに地震が起きたり、溜まったエネルギーが噴出して火山が爆発したりするだけですね。
どうでしょう、私たちの体の内外にも沢山の微生物が共存しているわけですが、私たちはその微生物たちのことを気遣いながら生きているでしょうか?
自分の体の一部である、赤血球や白血球なんていう存在も、体の中で動き回って活動しているわけですが、彼らのことを意識しながら生きていますか?
してないですよね。
例えば、私が楽しく太鼓を叩いて遊んでいる間に、手の部分を流れている赤血球はその衝撃でかなりの数が損傷してしまいます。ランニングしていたら、足の裏の部分を流れる赤血球は、同じように損傷します。中には死んでしまう赤血球もたくさんいます。
それ全部意識していて、赤血球さん可愛そうと思ったら、太鼓叩きもランニングもできませんね。
ある意味で、赤血球さんたちは、私たちが太鼓叩いたり、ランニングすることを赦してくれているのですし、私たちも、そうしても大丈夫だということを知っています。なぜなら、赤血球さんたちが自分の一部であることを知っていて、その生命は自分の中を巡っていることを知っているからですね。
地球も同じです。地球にとって私たちは地球の一部であり、その生命は地球の中を巡っていることを知っているのです。
だから私たちが何をしていても地球は私たちを赦しています。同じく地球も私たちに気兼ねなく、活動しているわけです。
ガイアの意識で世界を見ると、世界で起きていることの全ては赦されていることがわかります。
大切なことは、自分はすでに赦されているということを認めること、
そして、自分の周りにいる人も、同じくすでに赦されている存在なのだということを認めることです。
自分が赦せないと思っている相手でも、高次の意識においては、すでに赦されているのです。
自分が赦されているという事実を認め、それを受け入れる時、人はそれを周りの人にも与えることが出来るようになります。
赦しとは、愛と同じなのです。