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ファイナルグライド#8

雑感:この辺りまで辛抱して読み進んでくれると段々面白くなってくるはず(というか、そうなるように書いたつもり)です。登場人物が増えてくる事で競技中、マルチ視点で同時進行している状況を描けるようになってくるからです。競技の描写ではホントこれをやりたかった。100人が一つの競技を戦えば、そこには100のドラマが生まれる。その面白さが、僕をかくもパラグライダーの競技に熱中させた一つの要素で、それを描きたかったからです。さぁ、ここからどんどん複雑に競技が進展していきますよ!

バブル
 慶太はサーマルに当たった瞬間に一気にコアを掴んでセンタリングに入った。コアははっきりしており、慶太の機体を押し上げるには充分な力強さがあった。長い沈下の後のバリオの上昇音ほどパイロットの心を昂揚させてくれるものは無い。しかし、慶太は軽快な上昇音を耳にしながらもなお、微塵もその緊張を解く気配はなかった。
 地面で暖められた空気はその地面の暖まりやすさや周囲の状況によってずいぶんと違った振る舞いを見せる。そして、ほとんどの場合、暖まりやすい場所で早い時間に上がり始めたサーマルは、柱状の構造では無く暖かい空気の泡のような形状を取る。いわゆるバブルサーマルである。パラグライダーは充分な強さのサーマルの中では、センタリングを続けてサーマルの中に止まる事により上昇する事が出来る。しかし、その間もパラグライダーは上昇する空気の中を確実に沈下しているのだ。柱状のサーマルに乗っている時には忘れがちなこの事実もパイロットがバブルサーマルに出会った時には突然思い知らされる事になる。例えば旋回中に毎秒1.5mで沈下するグライダーが毎秒3mで上がる縦方向に60mの長さのあるバブルサーマルの中でセンタリングした場合、このグライダーは毎秒1.5mで40秒間上昇して60mの高度を獲得した後に突然上昇気流から放り出されてしまうのである。
飛び石
 慶太は全身の神経を二つの作業に集中させていた。一つはこの限りあるサーマルを少しでも無駄にせずに、稼げるだけの高度を稼ぎきる事。そしてもうひとつはその稼ぎ出した高度を使って移動する次のサーマルが立ち上がるタイミングを読み切る事であった。慶太にとって幸いだったのは、あの赤いレックスが慶太の下に潜り込んで来ていた事だった。彼女のセンタリング技術はまだ慶太ほどには充分では無いと見えて、慶太との高度差を詰められないでいた。おかげで慶太は彼女のキャノピーの動きを見ていればこのバブルサーマルが切れてしまう一瞬前にその事実を知る事が出来るのだ。次のサーマルは今二人が取り付いている尾根の真ん中付近に飛び出している枝尾根の先端付近にあると見て間違いない。問題はそのサーマルがいつ地面を離れて上がり始めるのか?だ。サーマルの上昇率は鈍くなってきつつあった。もういつ上昇が止まってもおかしくはない。稼げた高度は100mそこそこ、次の枝尾根まではたどり着けるが、そこでサーマルを捜してうろうろしているほど余裕のある高度ではない。これは時間的な要素の加わった格別に難しい飛び石のようなものなのだ。センタリングをしている慶太の視界の隅にテイクオフからこちらに向かって飛んでくる何機かのグライダーが飛び込んできた。やれやれ、一体このタイミングでここに何をしに来るというのだろう。彼らがここにたどり着いた時には完全にサーマルブローは通り過ぎた後になってしまう。何人かの幸運なパイロットはなんとか次のブローまで生き延びてレースを続けられかもしれない。しかし、それでも決定的なタイムロスは免れない。もし彼らが慶太が上げているというだけの理由でこちらに向かっているのだとしたら、一体ノービスリーグのレベルというのは、今ここで一緒に飛んでいるこの女の子が本物なのか?それとも今こちらに向かっているパイロット達が本物なのか?どちらなのだろう。慶太は次に拾うサーマルさえクリアしてしまえばこのレースは簡単に取れるような気がしてきた。ちょいといい気分になって、次のサーマルへの跳躍のためにサーマルを離脱しようとした慶太は、のぼせた頭に冷や水をかぶせられたようなショックを受けた。自分の下にさっきまでいた赤いレックスが居ないのである。そしてあろうことかそのレックスは慶太よりも一瞬早く、慶太の狙っていたのと同じ次のサーマルポイントへむけてグライディングを開始していたのである。電撃のように慶太は理解した。
「彼女は自分のやっている事が解っている!決して自分についてきていたわけではないのだ!」
一瞬前まで慶太の心の中ではちょうどいいダミーになってくれるかわいこちゃん程度でしかなかったあの赤いレックスは、いまやこのレースで慶太の勝利を阻む最も強力なライバルとなってしまったのである。一瞬の狼狽の後、慶太の緊張感は再び最高潮にまで高まった。しかし、慶太も赤いレックスのパイロットも気がついてはいなかった。二人にとって最強のライバルは、まだテイクオフにいたのである。
内藤
 テイクオフは凍り付いたような静寂に支配されていた。対岸についた浜田をはじめとする選手達のグライダーは、サーマルを探しあぐねて今バタバタとランディングし始めていたのである。そしてそれを見た選手達はゲートに殺到するのを止め、すでにゲートの中に入ってしまっていた選手達は、キャノピーを絞って再びゲートの外に出るべきか否か困惑に襲われていた。そんな中、ただ一人はっきりと自分のナンバーを名乗り、しっかりとした足どりでゲートの中に入って行く選手がいた。半ばパニックに襲われていたノービスリーグの選手達はこの馴染みの無い選手の動きを見落としていた。しかし、たとえ誰かがこの選手を見ていたとしても、これがさっき先頭を切って出ていったオメガ5のパイロットに、うろたえながら声をかけていた人物と同一人物とは思えなかっただろう。内藤の表情はそれほどまでに変貌していた。慶太のオメガ5が赤いレックスとともに二つ目のサーマルへの移動を開始する最も難しいタイミングを無事こなしたのを見届けると、それまでの保護者のような慈しみと優しさに満ちた表情は内藤の体の隅々から洗い流したように消えていった。今内藤は松田と共に日本の、いや世界のコンペシーンを席巻したあの頃にもどっていたのである。内藤の頭はいまや一つの事に集中していた。まんまと先行する事に成功したあの二人をいかにして抑えてこのヒートをものにするか?である。ゲートに入った内藤は落ちついてキャノピーを広げるとハーネスに取り付けたナビⅡのスイッチを入れた。回転する地球を背景に立体表示されたNAVIⅡのロゴがTFT液晶画面の上端からスクロールしてきて中央で止まった。次の瞬間画面はメニュー選択画面に切り替わった。
CHOOSE FAVERIT STYLE SHEET
← FULL AUTO 
↑ MANUAL
→ CUSTOM1
↓ CUSTOM2
内藤がディスプレイの手前にある十字スイッチの右側を押すと画面は衛星の補足を止めて速やかに通常のアルチバリオの画面へと切り替わった。ナビⅡに代表される計器はパイロット達にナビゲーターと呼ばれ、単なるアルチバリオとは一線を画して扱われていた。1996年頃この手の計器のはしりであるトップナビゲーターがマーケットに現れた時からフライト計器は2つの道を辿った。一つはGPSと温度センサー、アルチバリオを組み合わせてパイロットにありとあらゆる情報を提供するナビゲーターへの道。そしてもう一方は単純で信頼性の高いシンプルバリオの道である。ナビゲーターは、機能面では最初のモデルと言っていいトップナビゲーターの時点でほぼ完成の域に達していた。その後の進化はもっぱら信頼性の向上とコストの改善、そして操作性の簡便化にあてられた。ナビⅡはあらかじめ記録した操作手順をスタイルシートに記録することで複雑な設定手順の大半を自動化させることが出来るのだ。内藤の選んだカスタム1はこの大会に併せて内藤が昨晩作成した設定で、GPS機能を作動させずに普通の高性能バリオに近い感覚で扱えるように細工してあった。ファラオと一緒に借りてきたばかりで、まだ信頼性を検証できていないナビⅡを内藤はまだ全面的には信頼できなかったのである。セットアップを終えた内藤はナンバーを告げて、何の気負いも無く飛び出すと、すぐに左ターンをして南斜面にこぼれるコースへと向かった。何の事は無い。皆が対岸に気を取られている内に、うまくやれば南にこぼれられる程度にテイクオフ前のサーマルは成長していたのである。
焦燥
 慶太は歯がみする思いで赤いレックスを追っていた。悔しいかな滑空に入ってしまうと先行するレックスと慶太のオメガ5との性能差は歴然としていた。放っておくとレックスとの距離はじわじわと離されていくのだが、かといって無理をしてアクセルを踏むとレックスを見おろす慶太の目線はゆっくりと上がっていくのだ。一体どの速度で飛べばいいのか?一人で飛んでいた時には味わった事のなかった焦燥感が慶太を襲った。一人で飛んでいた時のようにゆっくりと考えをまとめて次の行動に移るなどという事は許されないのだ。次から次へとたたみかけるように迫ってくる判断に的確に決断を下し、素早く行動しなければならない。これがコンペなのだ。慶太は自分の飛び込んだ世界の厳しさを肌で感じながらアクセルを少し余分に踏み込んだ。先行するレックスが枝尾根の先端でサーマルに当たったのである。慶太が追いつくまでの間にレックスは慶太よりもわずかに高い位置まで高度を稼いでいた。慶太がセンタリングを開始すると今度はさっきのサーマルとは逆の立場で二人のセンタリングが始まった。やはりさっきと同じで二人の間には差は開かないし縮まりもしないのである。このままではこの逆転された立場をひっくり返す術は無い。グライディングでは勝てないのだから慶太はサーマルでこの赤いレックスに乗った女の子を負かさなければならないのだ。しかし、思い返してみるとさっきのサーマルから慶太は何一つとしてミスを犯した覚えは無かった。レックスの先行に驚かされたとは言えサーマルからの離脱タイミングは慶太自身の計ったものだったし、グライディングだってまずまずの出来だった。ところがたった一回のグライディングで慶太のアドバンテージは無くなり、あまつさえ慶太とレックスの女の子の立場はひっくり返ってしまったのである。つまり、ほんの数秒早く慶太よりも早くサーマルを離脱して、ほんのちょっと早く次のサーマルに取り付いただけでこれだけの差が出てしまったということになる。慶太は全力でこのレース特有の感覚を学んでいた。と同時に慶太の心の中で冷たい焦燥感が耳障りな声でこう告げていた。
「このヒート中にこのコンペのリズムを体得できなければこの女の子には勝てない!」と。

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