八村塁への道程
6月21日(現地20日)にNBAドラフト2019が行われ、
ゴンザガ大学に所属する日本代表の八村塁がワシントン・ウィザーズから1巡目全体9位指名を受けた。
バスケットボールに関心の低い方はピンとこないかもしれない。
残念ながら日本人の多くはそうかもしれない。
長年のバスケットボールファンは、
目頭を熱くしながらこのニュースを聞いたことだろう。
私もその一人です。
井上雄彦さん原作のスラムダンクが、
週刊誌少年ジャンプに掲載されていたのは、1990-96年。
思えば短い期間だが、
その影響はとてつもなかったと思う。
多くの小学生から高校生ぐらいが、
にわかバスケファンになり、
学校の休み時間に体育館でこぞって
リングを奪い合う姿は全国で見られた。
残念ながら日本にはバスケットコートは少なく、
公園などでもあるところは珍しい。
もともと体力を持て余していた人たちは、
橋の下に即席のリングを作るなどして、
真っ暗になるまでボールを追いかけた。
マイケル・ジョーダン。
スラムダンクでバスケットボールを知り、
その後にこの人の名前を覚えた。
サッカーで言えばメッシやロナウド、
もしくはそれ以上の存在かもしれない。
とにかくかっこいい以外の表現が難しいくらいに鮮烈された見た目と、
それに似合った必要な時に得点を挙げる名実共にスーパースター。
ジョーダンの前にいたスーパースターにマジックジョンソンがいる。
彼はある意味ではアメリカ人らしい体系でずんぐりむっくりとしていて、
そこから柔らかいシュートを放ち、
レイカーズに黄金期をもたらした。
しかし、
マジックジョンソンはHIVが発覚し、
91年に引退。
(一度復帰するも一年で引退でした)
入れ替わるように、
後継者として出てきたのがジョーダンでした。
91-93年スリーピートと言われる最初の3連覇はあまりにもインパクトがあった。
所属するシカゴブルズの選手はどれも個性的で花があった。
しかし、
ジョーダンは突然の引退をする。
その年不慮の事故で亡くなった父親との
約束を果たすために。
その約束とは、
メジャーリーグベースボール選手になるという、
子供の頃のもう一つの夢。
下部リーグでのプレイを素人目に見てもなかなか厳しい成績だった。
94年にはMLBでストライキが起こったことなどもあり、
95年にNBAに現役復帰する。
復帰した年に勝利数記録を残すなど、
彼らしいプレイを存分に発揮し、
95-97年に2度目の3連覇。
私も含めてあの時のシカゴブルズが
ベストチームというバスケファンは多いかもしれない。
(思い出補正込みかもしれないが)
スラムダンクとマイケルジョーダンという大きな洗礼を浴びた90年代からのバスケボールファンは、
(もちろんもっと前からのファンも含めて)
「いつか日本人もNBAに!」と、
いう夢が自然と湧いてくる。
スラムダンクに出てくる山王のモデルになってたとも言われる能代工業を9冠に導いた選手の一人、 田臥勇太。
バスケットボール選手としては小柄ながらも、
切れ味あるドリブルと多彩なシュートとパス、
どれをとっても日本人離れしていて、
まさにスラムダンクの沢北のようだった。
2004年、
前年よりアメリカ挑戦した成果が実り、
ついにNBAチームと契約しコートに立つ日が来た。
スタメンを得ることはできなかったが、
2008年に復帰するまで各チームを渡る姿はまぶしかった。
その後にも何人もアメリカに挑戦した人はいる。
その中の一人に高校の先輩もいる。
私の通っていた高校は、
偶然にもバスケットボール強豪校で、
先輩がNCAA(全米大学体育協会男子バスケットボールトーナメント)で活躍しているのを知った時は興奮したのを覚えている。
「巨人の肩の上に立つ」
学術分野などでよく使われる言葉で、
一人では遠く見渡すことができないが、
先人たちの膨大な蓄積(巨人)によって、
さらなる発展するべく畏敬の念を持ち、
戒めとすることで、
自らも巨人の一部となり、
礎となること。
スポーツにも同様のことが言えると思う。
メジャーリーグにはじめて挑戦した野茂英雄。
セリエAにはじめて移籍した三浦知良。
各ジャンルに巨人の一部となる第一歩を踏み出した人はいるだろう。
彼らの一歩は、
どれも甘くないし、
時には厳しい言葉も浴びていたが、
それをしっかりと見つめている少年少女がいるのを、
長年スポーツを見ていると実感する。
八村塁はその中の一人だろう。
彼を見る少年少女たちにどんなプレイをしてくれるか、
楽しみでしかたない。
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