Foot!やファミ通やほぼ日などを思い出してみた。#2
「2010年のインターネットを思い出してみた。#1」
同様に、
専門家ではないので、
とても個人的で主観的な記事になるかと思いますが、
1視聴者として、
1サッカーファンとして、
1ゲーマーとして、
1インターネットユーザーとしての思い出話として、
お読み頂ければと思います。
(こちらも同様に、
曖昧な箇所は昔の記事などを調べらながら書いていますが、
記憶間違いなどあるかもしれません。
その際は生温かく見守りつつ、一笑に付して頂ければと思います。)
2019-2020シーズンのサッカープレミアリーグが開幕し、
本格的に欧州サッカーが始動。
そして、
「Foot!」も20年目になるそうだ。
Foot!はスポーツ専門チャンネル「Jsports 」にて、
日本のみならず世界のサッカー情報などを伝える番組。
日本のサッカー番組は、
古くは1968-1996年に放送されていた「三菱ダイヤモンド・サッカー」がある。
93年にJリーグ開幕するまでは、
インターネットもない時代に、
ニュース番組でもほとんどサッカーの情報はなく、
日本にサッカーというスポーツの存在を伝えてる当番組は貴重だった。
欧州サッカーなどを中心に知る機会があったというのは、
70年代後半からラジオで洋楽などを聞き、
ファン層が拡大したのと近いかもしれない。
残念ながらわたしの世代は、
ダイヤモンドサッカーはほとんど見た事なく、
過去の番組特集などで、
数回見た程度だが、
40歳以上でサッカーファンの人は必ずと言っていいほど通過していて、
日本のサッカーにおいて大きな役割を果たしたのがよくわかる。
金子勝彦さんはダイヤモンドサッカーとFoot!の両方の番組出ていた。
1999年にFoot!の前身番組が開始し、
放映権の関係や
金子さんがご病気されたなどもあり、
毎年変化はあるが、
個人的には、
2001年にフリーアナウンサーの倉敷保雄さんが加わったのが
大きかったと思う。
倉敷保雄さんは、
それまでの日本スポーツ実況のような勇ましくスポ根的な語り口ではなく、
優しく紋切り型でない自分の言葉で話すとても新しいアナウンサー像に見えました。
体育会系じゃなくて文系。
新鮮でした。
わたしの思う「文系」というのは、
「謙虚でフェアに自分の言葉(作品など)で社会とコミュニケーションが取れる人」のことです。
倉敷さんはサッカーを通じてやってるように映りました。
高い理想を掲げるだけでなく、
コミニュケーションを取ろうとしてるのがとても心地よく、
93年のJリーグ開幕以降に
熱狂していた光景から少し冷め、
2002年の日韓W杯に向かう途中にある日本サッカーにおいて、
成熟には必要な番組であり、
アナウンサーだったと思います。
毎週番組では様々な特集を組んでいましたが、
「世界のサッカーはどうなっているのか」
と
「世界の中で日本サッカーがどう見られているか」を
問いかけ続けていたのはとても印象的でした。
自然と、
「その中で日本のサッカーはどうあるべきか」を、
考えさせてくれた。
繰り返しになるが、
93年にJリーグが開幕。
それ以降は個人で、
94年に三浦知良がイタリア・ジェノバに移籍し、
98年中田英寿がイタリア・ペルージャに移籍するなど、
サッカーに対する意識・イメージが少しずつ変わりつつあったが、
それまでは不良がやるスポーツの一つとされてきた。
映画「岸和田少年愚連隊」では、
1975年を舞台していて、
不良少年たちの喧嘩や恋愛などを描いているが、
少年たちはサッカー部に所属している。
主演を務めたナインティーンナインの二人は、
実際に高校のサッカー部の先輩後輩で、
80年代にも映画に似た雰囲気があったという。
筆者が知る限りでは、
90年代の後半くらいまでは、
タバコを吸っている「不良部員」は何人かいたけれど、
2000年前後には絶滅危惧種になっていた。
もっともサッカー部に限らずに、
部活全体で減少していたのは明らかだった。
「不良」を全否定するつもりはないが、
暴力性などから多様性を認める開かれたコミニュティの存在ではなかったのは確かだったと思う。
94年にSMAPが映画「シュート」に主演。
それまでのサッカーのイメージと違い、
のちに国民的スターになる爽やかなジャニーズがサッカーをテーマにするのは、
時代が変わったのを明確に感じた瞬間だった。
そんな中、
倉敷保雄さんのような明確に不良からは切り離されたスポーツ実況というのは、
一見稀有に思えるが、
時系列的に並べると必然的だったかもしれない。
シーズンオフには、
取材に様々な国を訪れ、
サッカーだけでなく街並みや風土料理、
現地の言葉や人を紹介し、
「日本のサッカーがどう見られているのか」を問いかけるのと同じように、
「サッカーがその国の人々にとってどんな存在か」を問いかける。
100年以上の歴史があるクラブは長年積み上げてきたのは、
今も現地の人などを尊重する姿勢などがあるから等々、
ここでもサッカーを通じてコミュニケーションを取る彼らしい視点だったと思う。
唐突ですが、
そういう倉敷保雄さんの姿勢に似ていると個人的に感じるのは、
ほぼ日の永田泰大さんです。
永田さんは元ファミ通の編集者で、
現在はほぼ日刊イトイ新聞
(糸井重里さんを代表とするメディア)の編集。
最近出版された
「岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。 」の担当編集さん。
岩田さんの本をつくる。
https://www.1101.com/books/iwatasan/editor/index.html
『岩田さん』編集担当・永田泰大インタビュー。岩田聡のこと、『MOTHER』のこと、糸井重里のこと、あとファミ通のことを聞く
https://s.famitsu.com/news/201908/09180664.html
詳しくは是非インタビューをお読み頂きたいのだが、
簡単に説明すると、
Mother3などのインタビューを岩田聡さんと糸井重里にすることで、
交流を深めて、
のちには開発にも関わるようにもなる。
永田さん本人は、
運が良かったと謙遜されているが、
インタビュアーがここまで密な関係を持ち、
開発まで加わるというのは他に聞いた記憶がない。
先述した自分の言葉を我田引水して恐縮だが、
「謙虚でフェアに自分の言葉(作品など)で社会とコミュニケーションが取れる人」
じゃないとなかなか難しいと思う。
「ちなみにぼくはゲームという娯楽を知ったのがほかの編集者よりもずいぶん遅く具体的には大学生になってからのことで、ゲームに対する知識が人一倍ないぶん、いろんなことに先入観というものがなくて、それはその職業にぼくが就いているうえでほとんど唯一の武器といってよかった。」
永田さん自身がこのように書いてるように、
糸井さんや岩田さんはインタビュー慣れしていて、
悪く言えば飽きてもいる。
そこで、
ゲームなどにフラットな目線で話せる人がいるのは大きかったと思う。
それに加えて、
永田さん自身が臆せずに二人に対峙することができた。
仕事ではなかなかそれができない。
立場がそれぞれある。
相手を尊重した上で色眼鏡なしで話しかけてくる人というのは、
お二人からしては、
仕事相手としても、
後輩としても大事だったと思う。
わたし自身が永田さんの存在を知ったのは、
96年にファミ通でスマブラについての記事を書いてるのを読んだのが最初だと思います。
当時まだ評価が高くなかったスマブラに対しての面白さをフラットに書いてるのはとても新鮮で、
そこは個人的には倉敷さんの第一印象と似てる気がします。
1978年に発売された
「インベーダーゲーム」が
喫茶店などでブームになり、
不良が遊ぶもののイメージがつき、
先述した「岸和田少年愚連隊」でも、
不良たちが遊んでいたのが、
インベーダーゲームだった。
1991年に発売された
「ストリートファイター2」も家庭用に移植されるが、
ゲームセンターでは多くが不良たちが遊び、
各台には灰皿がほぼもれなくあり、
コントローラーの周りがヤニだらけで
タバコで焼けているのも少なくなかった。
スト2含めた格闘ゲームブームに興味があった小中高学生が、
ゲームセンターでカツアゲにあうというのはよく聞く話だった。
95年にプリクラブームになり、
お客さんの層やお店に置いてあるハードの種類が相当に変わった記憶がある。
それまではほとんどが少年、
もしくは不良向けだったが、
いわゆるギャルと言われる中高から20歳前後の女性客が急増し、
プリクラはもちろん、
UFOキャッチャーや音ゲーなどが年々増えることで、
不良は減少していた。
繁華街のゲームセンターでは、
飲み会帰りに酔いを覚ます勤め人や家族連れなどが2000年前後を境に少しずつ増えてきたのを印象的に覚えている。
皮肉なことに
1986年に風営法の適用を受けて以降は、
ゲームセンターの登録件数は減少し続けている。
(1986年が2万6千件だったが
2018年は4千件。)。
話を戻そう。
ほぼ日に移籍された永田さんの仕事で、
個人的に印象だったのは、
「アテネオリンピックスペシャル 昨夜、オレは観た」。
https://www.1101.com/athens2004/index.html
2004年のアテネ・五輪の際に始まったこの企画は、
当時この企画を見た時は
正直なにが面白いのか、
イマイチわからなかった。
テレビで見たオリンピックについてメールで伝える。
とてもシンプルなこの企画は、
SNSがまだなかった時代に、
ウェブサイトを通じて、
雑多て情報とも言えない言葉まで含めて共有することで、
独特の一体感を感じて盛り上がる事が楽しめる事が出来た
とても「SNS」的な企画を先取りしていた。
この企画の編集が永田さんなのを知った時にとても興奮し、
とても腑に落ちたのを覚えている。
オリンピックの期間中に数千件以上のメールを一人で、
さばき続ける達人技とも言える
この企画はほぼ日の人気企画となったが、
永田さんの抜きでは成立しなかっただろう。
単純にメールを羅列するだけではなく、
絶妙なバランスがあるはずで、
それはmother3の頃の、
岩田さんと糸井さんのインタビューから、
書籍「岩田さん」に至るまで変わらないと思う。
書籍「岩田さん」を読んだ感想としては、
とても永田さんらしい本だと思う。
それが岩田さんが一番喜ばれると思う。
Mother3にこんなセリフがある。
「うれしいことも わすれるし
かなしいことも きっとわすれられます
にんげんには わすれるちからが
そなわっている」
残念ながら、
岩田さんを知らない世代が
少しずつ増えていくだろう。
でもわたしは覚えておこうと思う。
時折
「岩田さんだったらなんて言うかな」と思いを馳せる。
岩田さんらしいその何かというのは、
人それぞれに永田さんが運んでくれたものだろう。
ネット上にある書籍「岩田さん」の感想をいくつか読んでいると、
岩田さんはもちろんだが、
永田さんへの感謝と尊敬の念に
接する事ができる。
勇ましく強い言葉が並ぶインターネットの中で、
謙虚でフェアにコミュニーケーションする永田さんの姿勢は、
同業者の編集やライターにとっても少なからず影響があったのが伺える。
(これまで考えたこともなかったが、
一読者の一人ではあるが、
わたし自身がブログなどを書く時にも影響を受けていると思います。)
同じように、
サッカーを見ながらよく
「倉敷さんならなんと言うだろう」と思う。
サッカーの深部から身近な所までを豊富な経験と知識を持ちながらも、
押し付けない言葉で表現する。
物事は名付けが行われないと理解もされない。
ピッチの上で起こっている事を軽やかに新しい視点を与える。
Motherシリーズのファンとしても知られる爆笑問題の太田光さんが、
ほぼ日と関係が強い宮沢賢治の
銀河鉄道の夜(第3稿)に、
こんなセリフがあるのを紹介していたことがある。
「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」
成熟しそれぞれの理想がある中で、
大人として大切なコミュニーケーションとはなんだろうか。
しっかり人と、社会と向き合っているだろうか。
何よりも自分の考えをまず疑い、
しっかりとした問いを続けているだろうか。
岩田さんは、
HAL研究所の社長時代に、
半年に一度全社員80.90人くらいと、
面談をしていたそうです。
最短で20分くらい、
最長3時間くらい。
それを6.7年続けていたそうです。
「わたしのこの話を聞いてください」では絶対続けられないだろうし、
いかに様々な人に開かれた人なのかがわかるエピソードだと思う。
ポーズとして、
「聞いている素振り」を
見せる人はいるかもしれないが、
本当に一人一人と向き合い、
表面的な親切ではなく、
長い目で見て実際の利益になるのは何かを深く一緒に考えるというのは、
適宜厳しさを合わせていないと、
単なるお題目になってしまう。
短期的で瞬発力がある言葉の多い、
サッカー、
インターネット、
ゲーム各業界の中で、
倉敷保雄さん、
永田泰大さん、
そして岩田聡さんの言葉たちは、
中長期的に持続力があり、
わたし(もしくは多くの人々)の中に残ることになると思います。
3人には最大限の感謝を申し上げたいと思います。
自分なりの恩返しは簡単には、
見つけられないし、
早急に結論を出すのは避けたいと思うが、
まずはわたし自身の言葉と向き合い直したいと思う。
長い長い話を、
最後までお読み頂きありがとうございました。
過去の思い出話についての記事まとめ
#ほぼ日 #ファミ通
#任天堂 #Jsports_foot
#インターネット
#永田泰大 #岩田聡
#倉敷保雄
#思い出話
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