記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

軌道を共にして一緒に生きるライブ(ホームシック衛星2024 3/7大阪2日目感想)

BUMP OF CHICKENのツアー「ホームシック衛星2024」の大阪2日目(3/7)に行ってきました。

最高。最高でした。最高としか言いようがない。どんなに言葉を尽くしても陳腐になってしまう。本当に最高でした。生きる意味が詰まっていた。

終演直後の熱量そのままに帰路につきながら感想をダーッと書いたら、ポエムなのか名文なのか駄文なのかよく分からないものができたので、載せてみます。

箇条書きでかなりとっ散らかっており、このまま寝て明日の朝になれば間違いなくお蔵入りになる読みづらい文章ではあるのですが、ライブ後の冷めやらぬ興奮を何とか言語化しようとする熱量だけはあるので、良ければお読みくださると嬉しいです。

なお、公演に関するネタバレはそこまで踏んでいませんが、一定の曲目やそこはかとない雰囲気は伝わりそうな書き方をしているので、これから参戦予定の方はお気をつけください。

(余力があれば、レポやセトリや曲ごとの感想を別記事でまとめます)


感想① 周回軌道と存在証明

””対話””って感じがしたな、日常言語での会話じゃなくて、音とメロディと藤原基央の声と4人が奏でる音楽と、私という存在の、すごく身体的な対話。

あのライブ空間において、私にはBUMPの曲が、BUMPの曲には私がいないとダメなんだよなと心底思う。お互いが存在しないと成り立たないし、お互いが存在していることが、同じ時間を共有して対話していることの証明になっている。

色んな歌で歌われていたように「僕は君とずっと一緒ではない」。藤くんは四六時中リスナーのことを考えているわけではない。ご飯を食べている時はご飯のことを考えているだろうし、プライベートの人付き合いだって当然あるだろう。私だってずっとBUMPのことを考えているわけではなくて、曲を聞かない日もあるし、日常のあれこれに追われてしばらくBUMPから離れているときもある。

だけど、BUMPの曲はいつでも私の周回軌道上にいる。BUMPの曲は、藤原基央の言葉は、ライブで4人の音を全身で浴びたという事実は、その記憶と感覚は、私が苦しい時しんどい時楽しい時どうしようもない時に、ある瞬間に(それがどの瞬間かは私にも分からないけど)、巡り巡って私をそっと助けてくれる。普段は交わってるような交わってないような私とBUMPの曲たちが、ある時ふっと軌道を同じにする瞬間が今までに何度も何度もあった。今日も何度もあった。

だから、BUMPの曲たちは、ずっとそばにいるのだ。ずっと。ずっと。BUMPの曲たちは、藤原基央がかつて書いた歌詞は、ずっとタイミングを伺っていて、私が必要になったタイミングで、必要な分だけ、そっと軌道を共にし、私と向かい合ってくれたり、同じ方向を向いてくれたり、手を引っ張ってくれたりする。甘い言葉は何にもかけてくれないし、叱咤激励して手を引っ張るようなことはしないけど、だからこそ、信用できる。だからこそ、私は自分の足で立って歩くことができる。

そんな私の姿を、立ち上がったり立ち止まったり座ったりボロボロになったりする私のすべてを、BUMPの曲たちは、そっと見守って、そして、愛しく思ってくれる。不格好なまま生きている私を、「生きていればいいよ」と肯定してくれる。

生には終わりがあって、いつか会えなくなる瞬間がやってくることはお互い認識していて、私だって怖くなるし、大事な人を亡くしたこともあるし、曲たちも赤裸々に「離れたくないな」なんて弱音を呟くけど、藤くんも「次いつ会える?」って寂しそうに尋ねるけど、それでも、いつかやってくる終わりはお互いよく分かってるけど、だけどそれでも、一緒に生きようとしてくれる。

その一番の存在証明が、普段は重なったり離れたりしている私たちが、一緒に軌道を共にして生きるための時間が、あのライブだったんだと思う。

本当に行って良かった。私の声にならない信号にBUMPが応じてくれて嬉しかった。曲を通したBUMPの信号に私が応じられて幸せだった。

果てしない宇宙で、2人きりで交信しているような、そんな神秘的な時間だったな。幸せであっという間でした。

感想② 鏡合わせと生きること

カルマの「鏡なんだ 僕ら互いに」の意味がすごく腑に落ちた。カルマかっけぇ曲だな〜くらいにしか認識していなかったけど、今日ですごくよく分かった。本当にとんでもない曲だ。人の本質を突き刺している。

「BUMPが好きな人に悪い人はいない」なんて言われることがある。だけど私は、それは不正確な表現だと思う。世の中に悪くない人なんていない。BUMPが好きであろうとなかろうと、この世に悪くない人なんていない。100%の善人なんていない。大なり小なり、生まれた以上は何かしら誰かを傷つけている。人を傷つけたことのない人なんていない。それは仕方のないことだし、それが人間というものだ。生まれた瞬間から何かしらの「業」を背負っている。それが人間。

それは私もそうだし、藤原基央だってそう。増川弘明も直井由文も升秀夫もそう。みんな何かを傷つけながら生きている。だから「汚れた手」という歌詞が出てくるわけで。

だけど、それでも、人と人が、誰かを傷つけながら、優しくなりたいと願いながら、お互いの存在を確かめ合いながら、不格好でも生きていくことは、とても尊いことだ。

お互い汚れていて、全然綺麗じゃなくて、弱くて、いつか死ぬ存在で、だけど、「ここにいるよ」と呼びかけながら、一緒に生きることは、とても人間らしく、美しい行為だ。

カルマに至るまでの10数曲で、あるいは私がこれまでに聴いてきた曲やこれまでに対峙してきたライブで、私はずっと、BUMPの曲たちとお互いの存在を確かめあってきた。中学生の頃に初めて「才悩人応援歌」を聴いて、「これは自分のために作られた曲だ」と衝撃を受けてからずっと、人生のあらゆる場面で曲を聴く度に、私と曲は会話をし続けてきた。

それはまさに鏡写しのような行為で、そのときの私の考え方や感情や気持ちや状況によって、幾重にも曲の立ち位置が変化した。「この曲はこういう風に聴こえるなあ」と私が無意識のうちに感じるのは、当時の私が「その曲をそういう風に聴きたかった」からである。

メロディや旋律や歌詞は何一つ変わらないが、ひとつとして同じ曲が同じ位置に留まることは無かった。

中学生の頃に聴いた「才悩人応援歌」と、今この瞬間に聴く「才悩人応援歌」は、まったくの別物である。そして明日聴く「才悩人応援歌」も、また違った風に私に聴かれるだろう。もちろん、毎回その差異をしっかり感じ取りながら聴いているわけではないけれど。

ライブも同じだ。数千人が耳を澄まして聴いている音は、数千人が熱狂している藤原基央の声は、私にとっては、2024年3月7日の私だけに向けられているものだった。私だけのために歌われ、私だけによって聴かれている音だった。大阪城ホールにおいては、そのやり取りが数千人分積み重なっていただけにすぎない。あの大きな空間でなされていたのは、極めて個人的な対話である。

ヒロがMCで「ツアー6日目ですね。6日目も1日しかないので……」と言っていて笑いが起きていたけれど、本当にその通りだと思う。

今日のBUMPは、今日の私は、今日だけのものだった。1日しかない2024年3月7日の4人が奏でる音を、1日しかない2024年3月7日の私が聴いたのだ。そして、あの空間でしかできない、濃密な対峙を、たくさんの(それでも厳選された)曲たちとしたのだ。深い深い対峙を。

だから私の心は踊り、身体は勝手に揺れ、意志とは無関係に胸が締め付けられ、感情がとめどなく溢れ、涙と静かな嗚咽が肩に掛けられたタオルに吸い込まれていったのだ。

そんな濃厚な時間を過ごせる空間が、他にどこにあるというのだろう。

生をこれでもかと実感して、心が何にも縛られず剥き出しになり、深く深く対峙をして、時には優しく語りかけ合って、また自分のペースで生きて、4人に会いたい、藤くんの声で歌われる曲と対話をしたい、紡がれる歌詞と話をしたいと思えるバンドが、他にどれだけいるだろうか。

私にとってBUMP OF CHICKENは、彼らが奏でる音楽は、私の生と不可分のもので、できる限り長く側にいたい、側にいて欲しいと心の底から願う、そういう存在なのだ。

へなちょこだけど盾になってくれる彼らのライブに行けて、本当に良かった。

生きていて、本当に良かった。

また会いに行くという約束を4人にしたから、藤くんに「生きていれば会えるから」って言ってもらえたから、せめて次のライブまで生きなきゃね。

ボロボロでもヨレヨレでも不格好でもいいから、息をすることをやめずにいよう。

また日常に戻って、忙しない日々を過ごして、たくさんBUMPの曲に生かしてもらって、たくさんのBUMPの曲を私が生かして。

そういう何でもない毎日を送ろう。

とりあえず今夜はお風呂に入ってゆっくり寝て、風邪ひかないようにします。

いいなと思ったら応援しよう!