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有隣堂のイベントに行ってみた

3月26日
5時13分起床。朝食をとり、夫を送り出した後、
自分の書いた文章を見直す。
なんだかんだで、この朝の、夫を送り出してから自分の出社の準備を始めるまでの空いた時間に文章をぐいぐいやるのが一番合っているなと思う。
朝5時40分~6時20分くらいの間だ。
今日は6時30分くらいまでpcであれこれやっていて、その後慌てて身支度をする。ファンデーションは塗ったが、眉毛を書き忘れた。眉毛無くとも仕事はできると思いながら出社。

本日、会社の先輩が有休をとっている。
先輩あてにかかってきた電話に「代わりにお伺いいたします」と言ってぐいぐい対応する。月末の在庫出荷停止期間前に何とかアレ出せませんかね、という問い合わせに、出せますよ、とか出せませんよ、とか答えたりする。電話の件数が多くなると、脳がてきめんに疲労する。業務の合間にトイレでぱぱっと眉毛を書こうかと思ったが、タイミングを逃した。ポーチから眉毛描きを取り出して描くことさえ、今日はちょっと難しかった。眉毛無いまま定時退社。

今日は、退社後に楽しみな予定がある。
百万年書房の代表、北尾修一さんの、有隣堂での遊説に参加予約したのだ。
以前参加したイベントで、本を作るのは面白いですよ、というお話を聴いて、わたしも本を作ってみたいと思ったのだ。
↓初めてでも失敗しない、自由でかんたんな本のつくり方!!知りたい。

私が書ける文章は日記くらいのものしかないから、
この日記に加筆修正したものを本にしたいと考えている。
なんで本にしたいのか、ずっとあれこれ考えているが、しっくりくる理由としては、今の自分の生活があんまりにも閉じていて、しかも閉じていても満足しているのだが、もうちょっとなんというか社会に参加してもよいのではないか、自分のやり方で、と感じていること。
あとは、母親のことを、もうずっとずっと何年も考えているのだが、これを一回自分から外に出して形にしたいと思ったから。母親が死ぬ前に。そしてできれば、私は自殺遺児だけど今はのびのびリラックスして生きていますという人に会いたい。いまの生活では私自身が閉じすぎていて、どうしても人に会う機会がすくない。本を形にしたら、そういう人に出会うきっかけになるのではないだろうか。私は、弱さについては、もう食傷気味だ。こう書くことも傲慢に感じるが、それでもあえて書く。私は自分の弱さについて食傷気味だ。私の悩みがありふれたものである自覚もある。もういい加減、乗り越えたいし、乗り越えるべきだし、乗り越えたとてきっと劇的な変化は望めない。だからこそ、むしろ弱さと試行錯誤の先にあるであろう、穏やかさについて知りたい。あってもいいだろう、弱さの先に、穏やかさが。それが知りたい。弱さの先にある穏やかさを獲得した人が、きっとたくさん居るはずだ。私が知らないだけで。

というようなことを考えながら、横浜駅西口に向かう。眉毛がないため無印で眉毛描きを買い、ヨドバシカメラのトイレで眉を書く。対面でお話を聴くなら眉毛も必要だろう。

予約時間まで時間があるため、スタバで、ひらいめぐみさんの本を読む。
↓SPBSのイベントで、ひらいさんにサインしてもらった本「転職ばっかりうまくなる」だ。
昇格試験が終わったら思い切り本を読むぞと、楽しみにあっためておいた。

オーツラテのアイスを飲みながら、本を読む。面白すぎて誰かに共有したくなるが、生憎一人で来ている。カウンターに座る私の両隣は若い女性で、なんとみんなハードカバー本を持参してスタバに来ているので、読書家かもしれない。しかしさすがに怪しい者すぎるだろうから、この本面白いですよ、とは言えなかった。ので、Xに面白いから共有したいとつぶやく。そして面白いだけではない。いつも私がほんのり疑問に思いつつ、まあ社会はこんなもんだろうとやり過ごしていたあれやこれやが、しっかりと文章にされている。労働の理不尽さとおかしみ。これは若い人の労働忌憚と思うなかれ、私たち全員が営んでいる仕事というものの奇妙さよ。そして、川のそばで働くことについて。そう、川。川はいいよなあ。労働とは違うベクトルの、大きなものがそばにあることの安心感よ。かつて川のそばで暮らした時、川がそこにあるだけでもう最高と思っていた。
読んでいると、イベントの予約時間が迫ってきた。スタバを出る。

書店でのイベントというものは数多あり、それに行った人のレポ的なものを私も楽しく読むことがあるから、私もレポ的なものを書きたいと思っていたが、ここで北尾さんとお話したことを、詳細には書き出さず、自分の中に温めていくほうが良い気がする。横浜の有隣堂の、入口のところに座ってお話を伺って、私は本当に楽しかった。いま、本を作るのは本当に簡単だから、もう作っちゃいましょう、と言ってもらって心が軽くなった。そしてうまくやろうとしなくてもいい、とも。そう、そうなんだ、うまくやろうとしなくていいからやってみればいいのだ。私はうまくやろうとして、やらないまま、私にはできないと勝手に思い込んでやめてしまうことが多い。どうしてうまくやろうとしてしまうかというと、私以外のすべての人が、なんかうまく生きている気がするからだ。生命活動と生産活動に参加するには私もうまくやらなくてはいけないのでは、と思ってしまう。でもそうじゃない、うまくないままやり始めていい。もう今のままで形にしていい。失敗してもいいし間違っていい。だめでもいい。

北尾さんの前で、私もう自分の家族のことは乗り越えているからいいんですけど、と言ってみたものの、それは強がりだったかもしれない。そんな私に対して、北尾さんは、本の形にして外に出したらまた一段階違うステージに行けるかもしれない、とお話ししてくださった。その通りな気がする。私は他者の視点を必要としている。家族のことをずっと考えていても、それはそれこれはこれとして難なく仕事し夫と暮らし楽しく過ごしているから、もうこれは乗り越えているだろうと思っていたけれど。

いつもはスーパーに寄って食材を買い即帰宅する退社後のこの時間に、違う予定を入れてみようと予約フォームに必要事項を記入したら、こんな面白い話がきけるとは。場の機会のちから。行ってよかったと心から思った。

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