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最近みた台湾映画「返校」

 バタバタと生活に追われていると夏が終わりかけている。10月にもなって夏も何もないのだが、高校生以来、ぼくの実感では11月初旬になって、やっと夏の終わりが来る。冷える足の指先がそれを教えてくれる。

 さて、少し時間に余裕もできたのもあり、また仕事に疲れたのもあって、有能な後輩が激賞してくれた映画「返校」をみてきた。上映終了までチャンスはあと3回だけ。友人らに声をかけて数名で向かった。劇場で待っていると同窓の友人が現れたので、彼もまた後輩氏に勧められたという。笑ってしまった。

 予告だけをみて本編を見に行った。「ゲーム原作の作品で、台湾の統制厳しい時代をホラーテイストで描く」という前情報しかなかった。予告編は、ホラーテイストを前面に押し出していたので、台湾ホラーとはどんなものだろう?との期待もあって、とりあえず見に行った。結果、素晴らしかった。

 以前にも似たようなことを書いたので、自分の文章を引用しておく。映画『さんかく窓の外側は夜』を元にした、日米韓のホラーの違いに関するメモである。

 米国性のホラー映画だと、呪いを受けた者は、やはり基本的にモンスターになってしまう。モンスターである以上は物理的に解決できるわけだから、結局、物理で勝つことになる。実は、これと同様に、韓国のホラー映画も、結局、物理になってしまう。Netflix配信『クェダム:禁断の都市怪談』は、この部類に入る。つまりアクション映画とホラー映画は、非日常(物理)に対する心身の応答という意味では、同じ方向にある裏表の存在なのだ。
 たとえば、韓国のアクション映画は、男性俳優の多くに軍隊経験があるので、大変キレのある迫力の作品となる。翻していえば、「軍隊」という理不尽さを埋め込まれた社会における「怒り」の感情が、ホラー映画の具体性に関わっているような気がする。これはアメリカ映画でも同じなのだ。
 では、日本の作品はどうなのか。映画『さんかく窓の外側は夜』に限っていえば、そのような物理的具象化は出て来ない。たしかに呪いや霊は物理的な影響を及ぼすものとして描かれる。しかし、それは米韓のようなかたちではない。
 本作は呪いや霊障をあくまで人間の精神との関係で描こうとしている。つまり「霊能力をトラウマとの関係にしぼって描く」点が本作の良いところなのだ。


 平たくいえば、「軍事」が国の基幹をなす米韓のホラー映画は、アクション映画と同様に、物理的に怪異なり対象なりをぶっ飛ばすことになる。対して日本の作品は、あくまで「予感」や「気配」を増幅させていき、最後まで祓いの対象は物理的討伐の対象にはなり得ない。あくまで一般的な傾向の話である。

 では台湾はどうか。もちろん本作『返校』のみを観て論じるなんてのはバカバカしい。とはいえ、素人が映画をみた感想を述べることが、この記事の目的だから、バカになりたい。

 では、台湾はどうか。これが言語化できないで困っている。ゲーム原作と聞いていたからだが、カメラの視点、場面の切り替えも、たしかにゲームっぽかった。真っ先に思い出したのは、あの名作『弟切草』である。

 何はともあれ、本作の映像はホラーテイストとゲーム性が高い密度で滑らかに詰め込まれていて、大変よい映画だった。「国家はあなたに感謝します」「共産党のスパイは密告」などの言い回しと映像表現はうれしくなるくらい楽しい。いわゆる政府による市民弾圧としての「白色テロ」のリアリティがあり、SFとして見ても大変良かった。

 そして「白色テロ」である以上は、当然、台湾という国の歴史に絡んでくる。ネタバレになるが、本作におけるホラーテイストは、あくまで伏線である。個人的な映像の印象としては、日本でいえば、魔法少女まどかマギカの犬カレー空間の実写の台湾化、またはAmazonドラマ版「高い城の男」の感じがした。

 2010年代、2020年以降の良質なホラー作品に共通するものは、分岐の外し方であり、ネットの使い方の巧さである。その意味で、本作はネットには関わりがないが、大変よいホラー作品だった。

 あと野暮なので言わなくてもよいが、キリスト教に重ねていえば、ドナティスト論争の前後を思い出した。文学でいえば、シェンキエビチの「クオワディス」――ここまで書けば、ピンとくる人はあるだろう。

 とそんなことを書いていたら、映画館より『死霊館 悪魔のせいなら無罪』の公開日であるとの連絡が届いた。近いうちに、また劇場に足を運びたい。


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波勢邦生
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