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サブカル宣教論は錯乱メンタルか?

 戦後直後にできた会社のひとつにキリスト新聞社がある。ぼくの仕事先の一つでもある。2016年11月、同社発行の雑誌Ministryは「サブカルチャー宣教論~ニッポンの教会が見出す新たな地平 」と題して特集を汲んだ。個人的には、ニコ生の僧侶、リア住・蝉丸Pへのインタビュー記事は、現代を地方で生きる僧侶として滲む矜持が垣間見える素晴らしい内容であり、なかなか充実した特集だった。実は、ぼくもそこに「まとめ」として文章を寄せている。ふと思い出したので紹介したい。

サブカル宣教論は錯乱メンタルか? (キリスト新聞社・著作物 *引用開始)

 サブカル宣教論は錯乱精神の為せるわざか否か。その結果をどのように評価すれば良いのだろうか。2003年、京都学派の継承者であり宗教哲学研究者である気多雅子氏はアニメ『エヴァンゲリオン』を評していう。

 世界の建設と破壊は、元来、宗教の問題であった……ある年代以上の人たち、特に宗教関係者には理解しがたいのではないかと思われるが、いまの多くの若者にとって宗教はほとんどサブカルチャーなのである。『エヴァ』にも使徒、アダム、リリス、死海文書など、……神話や聖典の言葉が用いられている。それらの使い方はまったく思いつきであり、背後に作者の思想的な意図があるわけはなく、意味ありげな雰囲気作りに利用されているに過ぎない。……宗教に権威がないというよりも、生きること死ぬことに威厳がないのだろう。……ことばはコミュニケーションの道具であるというよりも、信号や暗示であったり攻撃や防御の手段であったりする。……成長物語でありながら、そこに描かれた世界は社会性を原理とするものにはなりきれない。『エヴァ』の子どもたちは、大人になりきれない、しかも子どもであり続けることもできない痛々しい子どもたちのように見えてならない。
氣多雅子「エヴァンゲリオンのこどもたち」『知の楽しみ、学のよろこび』(京都大学文学部編、岩波書店、2003年)

 聖書、教会、信仰、宣教という「聖なるもの」にまつわる事柄を、あまりにも無思慮に世俗化し低俗なものに貶めているとの批判がサブカルチャーを手段とした宣教に対してある一方、ゼロ年代以降の日本の状況では「キリスト教」でさえ「サブカル」である。この現実を踏まえた上で、ある種の苦し紛れ、または破れかぶれにハミ出てしまったのがサブカル宣教といえる。

 では、宣教・伝道とは何か。一般的には、頼んでもない人々にやかましく自分の確信を押し売りすることが「宣教」だ。しかし、神でもないのに誰がどうやって伝道の成功可否を判断できるのか。自分が伝えたと実感できれば、教会に新来者が来れば「伝わった」ことになるのか。

 古代の五大教区的伝統ならばまだしも、新興プロテスタント諸派の一教会の言語文化や共同体、内輪のナルシシズムと郷愁の再生産が、果たして伝道なのか。神のことばが「信号や暗示であったり攻撃や防御の手段であったり」、教会が社会性のない「大人になりきれない、しかも子どもであり続けることもできない痛々しい子ども」となっていないか。

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 サブカルを考えるにあたって、大切なことは「神の創造の善性」だ。全被造物に神が置いた「善」性を発見する視点を「サクラメンタル」という。錯乱メンタルではない。「サクラメント」とは「目に見えない神の恵みの可視化」だから、原理的に全時空がサクラメンタルである。

 サクラメントとサクラメンタルの峻別は神学的・歴史的なものなので割愛するが、サクラメントの原語ミュステリオンは「神秘」を意味する。すなわち、サクラメンタルに世界を見つめ「創造の善性」を発見するとき、メイド喫茶は教会的であり、コミケは神の創造の継続とも見做せよう。すべてが神の恵みの賜物の発露となる「神秘」だ。無論、悪の問題もある。しかし、すべての善は神に由来する。

 宣教とは「出ていく」ことだ。礼拝に出席してもらうことではない。教会員増加は信者と牧師の下心。「結果」を手中にしたい欲望は、人間の分を弁えない思い上がり、「理想的信者」像を貪る偶像礼拝だ。結果は誰にも支配できない。いつも神と他者に向って開かれている。

 人は、壁に三つのシミを見れば、それを顔として認識する。新カント学派の哲学者、E・カッシーラーは人間をHomo Symbolicus 象徴を操るものとした。「記号と象徴」すなわち「ことばと絵」を解するところに「人間らしさ」を見出した。つまり、教会の言動の意図を超えて、宣教は人々の「人間らしさ」の中で解釈(理解・翻訳)され受け止められる。だから信者の生涯全体が宣教となる。

 この前提で、改めて宣教とは何かを問うと「サクラメンタル」という視点が重要になる。結果に縛られていては「人間らしさ」は見えないからだ。いかなる善も神に由来し、あらゆる事柄に善悪の両義性があると認めるとき、「人間らしさ」の場が出てくる。

 その人間らしさ、大統領・ホームレスであれ、ギリシャ人・ユダヤ人であれ、誰もが人間――神が住み働く場――であることを認めるときに、宣教が始まる。そのとき、ガルパンは福音、マリみては愛、ストパンは希望となる。まどマギは贖罪論となり、シン・ゴジラは黙示録となる。世界の善性を認めるとき、語る福音がノイズではなく質のある独白として意味を持ち、誰かの戸を叩くのだ。

 サブカル宣教とは、世界の只中でサクラメンタルな存在として自己を提示し続けることだ。自他の弱さを認め「大人になること」だ。礼拝し働き休み、社会の一員として自他を受け入れて生きる。大人は楽しみと脆さを語り合うとき、もっとも「らしく」なる。その「らしい語り」が自他をサクラメンタルなものとして発見させ社会に発露させる。

 メインからサブへ。周縁で抑圧され小さくされた人々へ。錯乱メンタルからサクラメンタルへ。記号と象徴の連鎖的波紋である「人間」という相互浸透の場で、神が踊り始める。そこに移動祝祭日として喜びの宣教が立ち上る。そして、大人となったエヴァの子どもたちが自他の生死に威厳をもって共に生きるために、世界を言祝ぐのだ。

(*引用終わり)

 随分と雑な気はするが、言いたい放題、十分に語っているのでそれなりに満足している文章だ。宣教と教会、すなわち「内容に関する言説と組織」の問題というのは、悩むところである。個人的な解決は得ている。が、それはここでは措く。

 たしかにキリスト教は世界最大の宗教だ。しかし、日本ではサブカルチャーにさえならない、マイナー趣味サークルのようなものである。その意味では、オカルトやUFOファンの連携と消費の仕方に学ぶことは多いだろうと思う。広く消費者を増やすためには、文学・批評としてのキリスト教の回復が必要となるだろう。

 宣教とは何か。答えは一つだ。「人間が生きている」ことである。


謝辞:転載を快諾して下さったキリスト新聞社に感謝いたします。

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