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キリスト教について

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「キリスト教理解」の理解について
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2019年6月の記事一覧

遅れた解題とあとがき

 約一年前、「トナリビトの怪」という文章を、批評誌『アーギュメンツ♯3』(渋家、2018)に寄せた。論文、論考ではない。いま思えば、信仰告白であり宗教文学だった。  2014年の春、生涯を捧げようと願っていた「教会」から去り、迷いの中で沖縄に一か月ほど逗留した。上空200m、モーターパラグライダーで上昇し、風まかせに空を漂う初めての感覚を今でも覚えている。地上からは見えない久米島の全景が、ぼくの身体感覚と接続した瞬間だった。それは予兆であり、その後についての象徴的体験だった

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大東亜戦争と教育

 朝起きると少し蒸し暑い。ドライをかけようと思い、エアコンのスイッチを入れた。途端、セカイが暗闇に包まれた。停電である。たしかにPCは点けっぱなしだが、そんなことで...?家電のスイッチを押しただけなのに、家屋全体の電源喪失だなんて。  訝りと諦念の中でブレーカーを確認すると落ちていない。えっ...??? 寝起きなのでヒューズとブレーカーの区別がついておらず、検索に手間取る。折しもスマホを充電し忘れており、現時点で残電量42%。これが天文単位パーセクならば誤用であれ心強いが

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餅は餅屋に、神のものは神に。

 先日、礼拝に出席し、ふと思った。「あぁ、教会って最大公約数のためのものだよなァ」、非常に深く納得した。そう思うと、その営みへの深い敬慕の念さえ覚えた。教会は不特定大多数にして最大公約数的な人々のために語られる「神のことば――キリストの手紙」なのだ。  より多くの人々に、より分かりやすく、より明確に。枝葉末節、複雑怪奇なことは措いて、聖書と聖伝――キリスト教の主要な内容を伝えるものが「教会」である。たとえば一個の地域教会は、少なくとも、その地域において数十年から百年の期間を

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近代日本とキリスト教 序の解題.2

 なぜキリスト教が日本では流行らないのか。この問いは二つの主題を含んでいる。「近代精神とキリスト教」の関係を見定めること、これらと「日本」の関わりの来歴の中で、あり得た未来を考えること。これら二つの連環、「関係性」を明らかにし、人々に了解可能な形で提示できたならば、冒頭の問いは答えられたことになる。  いいかえれば、欧米とその植民地の外、非アブラハムの宗教圏で「近代」という技術文明を輸入したリトマス試験紙ーー実験国家「近代日本」の精神史を浮き彫りにすること。そのために、キリ

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近代日本とキリスト教 序の解題

 研究に直接かかわる内容として『近代日本とキリスト教』がある。久山康(1915-1994)は、関西学院大学の優れた宗教学者・教育者だった。1956年、久山の発案・司会のもと、座談会『近代日本とキリスト教』が開催された。  参加者に名を連ねるのは錚々たる面々である。高坂正顕、山谷省吾、亀井勝一郎、小塩力、椎名麟三、隅谷三喜男、猪木正道、北森嘉蔵、武田清子、西谷啓治、武藤一雄、遠藤周作。彼らが明治・大正・昭和・戦後のキリスト教・戦後日本精神史を縦横無尽に語り尽くし、丁寧な補足を

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naiveだった頃の読み

  たまには日記的なものを置いておく。今日は毎週の「賀川豊彦」演習に出席した。読書は好きなほうだが、近畿大学の学部生の頃には「購読」クラスの意味がよく分からなかった。たしかに聖書を「読んで」いた。しかし、その読み方はベタに素朴にナイーヴに読んでいた。若さとはそういうものかもしれない。そう、まだ聖書をナイーヴに読んでいた頃の話である。 次のような主のことばが私にあった。  「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを

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