これからの正義の話をしよう
「これからの正義の話をしよう」ーーマイケル・サンデルはその著書の中で、正義とはなにか、正義の意味するものについて詳細に述べている。
しかしここで僕は正義というものの定義を確立した前提で、その上での正義の意味について考察したい。哲学的文章を書くのは初めてなので、単語の定義の曖昧さや表現の稚拙さには目をつぶっていただきたい。また、反論やその他示唆的なコメントも心待ちにしている。
自殺動画が拡散される現実
本日午後、大丸梅田の屋上で飛び降り自殺があった。当然人通りの多い場所で、多数の野次馬が写真や動画にその非日常を収めようと試みたようだ。
この時点で人の死を娯楽コンテンツのように捉えて撮影することそれ自体をおぞましく感じる方も多いと思われるが、信じがたいことになんとその動画をSNSで拡散する人間が多数現れたのだ。
少数の人間がアップし、その動画が批判を浴びる、というならば倫理観にかけた人間もやはりいるのだなぁ、で済む。しかし、多数の人間がアップし、さらには数多の人間がそれをRTし、拡散していたのだ。あまりにもおぞましいことであるが、これだけ多くの人間が関わる以上、彼らを「異常者」として片付けることはできない。大衆の倫理観に焦点を当てるべきであろう。
どこが「おかしい」のか
拡散された動画に興味がそそられる。倫理的に間違っていると思っても興味半分に見てしまう、そういう人は多いのではなかろうか。これに対する要因として、自殺の非日常性に由来するコンテンツ性が強く働いていると考えられる。コロッセオなどはこの典型例であるし、人間の性からしてこの暴力、狂気を渇望するのはしょうがないことなのかもしれない。さらにはTVやインターネットが普及したのち、娯楽世界は現実的な非現実コンテンツで溢れかえっている。それらの延長として、この自殺動画の敷居は格段に下がるであろう。
しかし一方で、拡散する心理というのはこの欲では説明がつかない。ではなにが彼らを突き動かすのか。RT数によって満たされる承認欲求、あるいは他人に知らせて興奮を共有したいという欲が原動力となる。
どうであろうか。これで説明は完了したように見える。
エンジンではなくブレーキ
しかし上の議論では納得しない読者は沢山いるだろう。どういうことか。
倫理的束縛に対して、欲求の程度が小さすぎるのである。例えば、津波で人が流される動画なんかをイメージして欲しい。非日常性、ダイナミックさは同程度であるし、人も亡くなっている。だが、自殺と違ってこの場合、たとえ世間に津波被害を伝え、対策を呼びかけるという大義名分があったとしても拡散はされないであろう。
このことと考え合わせると、明らかに、自殺の場合は倫理的束縛が緩くなっている。
それでは、何が倫理観を緩くさせるのであろうか。
正義
答えはこれである。正義こそが、倫理観を衰弱させているのである。
正義
文明社会において正義は絶対である。正義は人類の営みの全てに先立つ。どんなに金を稼ごうとも、多くの幸福を生もうとも、それが正義に反していれば断罪されるべきである。
しかしある時を境に、正義が暴走し始めた。
ーーー「犯罪者なんか全員死刑でいいよ。」
誰しも一度はこの文言を聞いたことがあるのではなかろうか。もちろんこれは倫理的に間違っているのだが、人が判断する上でこれに似たような思考は多々、垣間見える。
犯罪者が出た家の人は周囲の人間から差別される。いじめられるし、口もきいてもらえない。ゲームの界隈で改造が発覚すると、改造をした人は住所を特定される。バカッターにしてもそうである。
人は正義という「武器」を以って他人を攻撃し始めたのだ。正義を背景とすれば人を無制限に傷つけてもいい。だって正義なのだから。
正義とはすべてをねじ伏せる力であり、歴史を顧みれば明らかなように力は暴力と化す。だから人間は社会における取り決めとして法を作り、刑は罪と等しい重さで設定した。法は報復を防ぐために存在する側面もある。すなわち、それ以上の私刑は単なる人権の蹂躙であり、否定されるべきである。人は人を裁く権利を司法に移譲している。
と、ここまできて自殺の件にもう一度戻ってみると、津波と自殺の動画に関する倫理的感覚の違いがうっすらと浮かび上がってくる。
「自殺をするなんて負け犬だ。自業自得だ。しかも人に迷惑をかけるなんてなんてやつだ。そんなやつに人権はない。」
この考えこそが自殺動画の拡散に対する倫理的束縛への対抗馬となり得たのではないだろうか。人の死は悲しむべきものであり、人の死を娯楽コンテンツにするなんておぞましい。そんな人として当たり前とも言える倫理観は、無制限の「正義」という槍に貫かれた。
結論
自殺動画を拡散するのは間違っている。なんてひどいやつらなんだ。
こう結論づけてしまっては元も子もない。