暇な時間
暇な時間ってとても謎である
やらなければならないことはたくさんある
しかし何もせずぼーっとしている。暇だなー。なんて言いながら
不思議なことに、暇だなー。なんて言っている時は本気で何もやることがないと思っている。何もしたくないなー。とか思っている訳でもない。ただ、手元に何も見えないのである
ビハインドが溜まったストライヤーとかいうバケモノを前にして尚、ヒマダナーなんて言いながらこのアーティクルを書いている
もう一人の自分は勉強しろと叫んでいる。うるさい
そうこうしているうちに、ふと思い至る。そもそも、「暇」なんていう概念自体が異常なのではないか、と
まず、「暇」というのは常時何かしらやることがある、という前提の上で定義される言葉である
つまり、平時の忙しい状態から抜け出した一瞬の休息として立ち現れる概念なのである。なんと、時には負の表情を帯びながら
平時の忙しい状態。はて
休息が負の表情を帯びる。はて
は?
なんで常に行動しとかにゃならんのじゃ
なんで休息の時間に対して負の感情を抱かにゃならんのじゃ
むしろ我々はもっと自由な時間をじっくり、ゆっくり過ごしていいのではないだろうか
当然、自分の時間を有意義に使いたいと思うのは妥当であるし、大学に来た以上、周囲の優秀な人間に負けないよう、努力しなければならない。勉学のため、時間を惜しむのも良いだろう
しかしせっかく、従来「暇」と称されてきた休息の時間を得られたのであれば、それを存分に味わおうではないか
それを享受して、間も無く始まるであろう努力の時間のために力を蓄えようではないか
暇な時間を忌み嫌うべきものとして埋める、あるいは負の感情を残すものとして受け止めるのではなく、そのゆったりと流れる貴重な時間に精一杯感謝して、窓から見える景色に一瞬ながら心を奪われてみようではないか
そう思った金曜日4限であった
あ、仏語忘れてた