切っても切れない関係性
タイトルにパッと思いついた事があり、それはなんなのか?何故それが切っても切れない関係性はなんなのか?と深掘りしていくと
たどり着いたのは東洋と西洋の感じ方の違いで、関係性も全く違う、ただ共通しているのもある。
共通している関係性とは何かと言うと
"宗教"
"信仰"
"生活の基盤"
この三つで成り立っているものだからであって、それが全てかっていうと「全て」ではない。
何故なら日本人特有の「曖昧さ」がそこに加わるから。
「曖昧さ」が加わるのは何故なんだろうか?と、考えたときに浮かぶのは、そこに「或る」という感覚を当たり前に感じているからなんだという事。
「或る」という考え方に対して語るというのは日本人だから当たり前すぎてというよりは日常的に常に感じている事だから。
敢えて語らない。
語らないからこそ、ますますそこに「或る」という事に実感を増すのだし、そこが西洋と東洋の感覚の違いなんだと思う。
勿論、そこに居るという感覚はあるし、理解はしているけれど、と言った感じで「曖昧」にする。
だってそこに居るのは当たり前の存在だから、当たり前すぎてその感覚を西洋人に理解して貰おうとすると、膨大な量だし、はっきりしたい西洋人からしたらますます訳の分からない領域だから混乱する。
彼らは一神教の考え方をもとに生活を基盤にしているから。
その神様以外を認めるという考えが、根本的にないし、そもそも端から根付いてないんだよね。
そりゃ仕方ないわーと思う。
一時でもその場にいた身としては物凄く実感する。だってその神様だけしか見ないし、その神様しか愛せないから(一途かよ。)
それにその神様自体を「語れる」けど、何故それが「或る」のかって言うのは語れない。
いや寧ろ語ると言うのはそのものを否定することになるから西洋人からするとかなり「無理ゲー過ぎる」からなんだよね。
(かなりツッコミを入れられる量だぞ、本当に。)
特にダーウィンの進化論なんかは本当にタブー。ね、矛盾してるっしょ?
そう言う点でいえば、東洋の考え方はかなり合理的だし、わからないものはわからない、ただそこに「或る」と言う事を理解して受け入れているから、寛容ったら寛容。
さらに「或る」と言う点では仏教の考え方の方が理論的だよねと思う。
何故理論的だと感じたのかと言うと、彼らの考え方に基づいていえば、そこに「或る」か「無い」かって言うとその点では間違いなく「或る」んだろうけど、同時に「無」もあって当然と言う感覚もあるし
「空」と言う考え方に至るんだと思う。
それは「経験」と言う考え方よね。
「或る」と言うそのものに関しての思考に。
だから理論的に考えられると言えば確かに納得はするけど、そこには「曖昧さ」はないしバシッと話せることだと思うけど、「或る」と言うそのものにはいかない。
寧ろ「無」のところまで悟っちゃいました(てへぺろ)と言う感覚なので、「或る」と言うところとか本当に真逆の立場なんだよね。
では「或る」と言う考え方に最も近いのはなんなのか?と言うと、日本人特有の「曖昧さ」を加えて馴染めるのが「神道」なんだよね。
だって神様は「居る」けれどその存在を「畏怖の念」で敬う、人には出来ないことを彼らは出来てしまうし敵うことは出来ない、それでも彼らから頂く「命」に感謝することによって彼らを感じる事が出来るから。
だから「或る」という考え方に至るし、その存在そのものが分からないけど、「畏怖の念」を覚える。
「分からないもの」も含めてあるがままに受け入れる事が出来るし、それに対して抗おうともすることはしないからよね。
もっと古く、深い信仰という点でもっというと、「お天道様」が見ているから「悪さをすると罰がやってくるぞ」という考え方に至るんだと思う。
シンプル イズ ベストだよ本当に。
というわけで、今日はここまで次回に続きます。読んでくれて有難う!
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