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【2024】最高な本トップ3
今年も一年を振り返って、特に好きになった本の話をします。
3位
三浦哲郎『スペインの酒袋』
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パラフィン紙の肌触りが良くて剥がせない。
あらすじ(というより、あとがきを引用)
「私は、いわゆる山海の珍味について書かれた文章には興味がない。それは文章で書くものではなく舌で味わうもので、味わえばおそらく誰にとっても美味しいだろうからである。私が味覚について書く興味は、ありふれたもののなかにひそんでいる思いがけない新鮮な味覚、忘れていた懐かしい味覚を探し出すことだ。」
感想
食にまつわる随筆集。それも、引用文で作者が語るように、ただ味を伝えることを目的とするのではなく、その食の体験に紐付く記憶の掘り起こしを行っている点を面白いと思った。これは、僕の味に対する感度の低さ・胃のキャパシティの小ささが悪さして、食事だけを強調されると胃もたれがしてくるからかもしれない……
収録されている作品の中でも、「サクランボを食べながら」がお気に入り。
ざっくりとした話の内容は、ある日、学生時代の友人がサクランボを送ってきて、その友人と過ごした桜桃忌の思い出を回顧するというもの。
その中に、作者の人となりを端的に表した文章がある。
『晩年』の巻頭は『葉』という短篇で、
その『葉』の冒頭にこんな文章がある。
『死のうと思っていた。ことしの正月、
よそから着物を一反もらった。お年玉
としてである。着物の布地は麻であっ
た。鼠色のこまかい縞目が織りこめら
れていた。これは夏に着る着物であろ
う。夏まで生きていようと思った』
死のうと思って、そうして死んでしまっ
た肉親を二人も持っている私には、こ
の文章は、こたえた。それまでの私は、
死は、恥であり、死のうと思って死ぬ
者はその恥のかたまりであると思い込
んでいたのだが、この文章は、死のう
と思う人、いわば死を操る人の繊細な
心情を、私に教えてくれたのである。
この作者はきっと、俯いた拍子に濃く伸びる影を見て、塗り潰された黒い色に浸るのではなく、その影を作り出した人に思いを馳せる。それだけでなく、背後には光があることを確かに感じている。
そのように思わせてくれる、生の悲哀と喜びに満ちた作品。
僕も、自分の中の暗い部分を見つめ続けて、そこで終止せず、少しでも明るく、人と付き合いたいと思いました。
2位
中村文則『カード師』
あらすじを引用
主人公は占いを信じていない占い師で、違法賭博のディーラー。ある組織の依頼で、正体を隠し奇妙な資産家の顧問占い師となる。だがその資産家は、自分を騙す者を殺害するような男だった。交錯する様々な思惑。降りかかる理不尽の中、窮地の先に主人公を待っていたものとは―。
感想
物語としての面白さと、小説としての興味深さをここまで両立させた作品を僕は知りません……!
500頁強もあるのに、読み進める手が止まらない。
特に、第三部のクラブ“R”(闇賭博会)では、ギャンブラーの計算と欲望と無意識が混ざって生まれる、うねりと熱をひしと感じた。この、読む手を止めることができない読書体験は、破滅型ギャンブラーが感じる、他者に身を委ねる快感にも似ていると思う。けれど、この作品(だけに限らず)のより面白い読み方は、頭を常に働かせて、自分と作品を重なり合うことのできる他者、だと認識することだと思う。そうでなければ、小説を読む意味が薄れてしまう。
この作者(普段は敬愛の意から、文ちゃんと呼んでいます)も、先に書いた三浦哲郎のように、暗いところにありながらも、明るいものを求めようとしてくれる。その姿を見て、読み手である僕は、光を求めたいと思う。
一方的かもしれないけれど、このような繋がりを求めて、僕は本を読んでいるのだな、と改めて意識をした。
僕も、誰かに繋がる線を伸ばしたいな。
1位
幸田文『木』
あらすじを引用
樹木を愛でるは心の養い、何よりの財産。父露伴のそんな思いから著者は樹木を感じる大人へと成長した。その木の来し方、行く末に思いを馳せる著者の透徹した眼は、木々の存在の向こうに、人間の業や生死の淵源まで見通す。倒木に着床発芽するえぞ松の倒木更新、娘に買ってやらなかった鉢植えの藤、様相を一変させる縄文杉の風格……。北は北海道、南は屋久島まで、生命の手触りを写す名随筆。
感想
日本語の扱いが上手すぎる。今年から、本に付箋を貼るようにしたのだけれど、特にお気に入りの表現に貼る黄色付箋が、6枚もついている。ここでは、そのうちの一つを(ちょっと長いけど)紹介します。
でも、あまりよすぎると、こちらが淋し
くなってしまう。賤しい心は、いいもの
美しいもの立派なものの前へでると、ひ
とたまりもなく、はあとばかり感じ入っ
てしまう。殆ど無条件なくらい、とたん
に感動してしまう。敏感だともいえるし、
いいものに弱いともいえる。そこまでは
いいが、そのあとが困る。自分の見苦し
さを思って、心がどんどんしぼんでいき、
自分はこんないいものとは遠い存在だと
思いこみ、縁のないものだと思う。はぁっ
と感じ入ったことは、実はそこでちゃん
と縁が結ばれたことなのに、そうは思わ
なくて、逆にそこから縁の切目を確認し
たように思いちがえ、いよいよ身を小さ
くし、いいものとのつながりをことわっ
てしまう。
この作品集を読んだ、僕のようですね。上記の引用をするときも、恐れ多くも……という気持ち。
読んでいる最中、あまりに上手い言葉の扱いに驚きつつも、何が僕に上手い、と感じさせるのか考え、品の良さ? とまでは思い至ったのですが、では何が品の良さに繋がるのかを考える間もなく、解説を読み、そこに引用されているサモセット・モーム『要約すると』の言葉が腑に落ちました。
いい文章というものは、育ちのいい人
の座談に似ているべきだと言われてい
る。(略)礼儀を尊重し、自分の容姿
に注意をはらい(そして、いい文章と
いうものは、適当で、しかも控えめに
着こなした人の衣服にも似ているべき
だとも、言われているではないか)、
生真面目すぎもせず、つねに適度であ
り、『熱狂』を非難の眼で見なければ
ならない。これが散文にはきわめてふ
さわしい土壌なのである。
品性≒礼儀。作者は、他人の考えを尊重し、けれど私は、と押しつけるわけでなく感じ、考え、伝える。その思慮深く、悪意のないことが伝わるから、言葉を前にして僕らは受け入れることができる。他人に対してそうであるように、言葉に対しても真摯なのだと思う。
話が個人的なことに逸れますが、昨年、大好きな作品の一つとして挙げていた、『ノルゲ』の作者である佐伯一麦さん(文学館の催しで、先生と呼ばれて頭を振られていたので)が解説を書いていたのです。なんたる偶然! 『木』はプレゼントしてもらったものなので、その偶然性に思わず嬉しくなりました。
これが偶然でないのなら、贈ってくれた人が僕のことを深い所で理解しようとしてくれた結果なので、もっと嬉しい。
✣✣✣
以上が、今年の個人的大好きな本ベスト3でした。今年は嫌なこともあったし、嫌なことをしてしまったことも多かった(比率としては1:9……)けれど、それでも前を向いていられたら、と思います。