「生きやすさ」って何だろう
私は母と良好な関係を保っているが、話題の中心は専ら孫。私からすれば姪甥である。可愛くてしかたがないのも事実だし、母自身も何も意図していないとは思うが、パートナーのいない私の最近の口癖は「ごめんね何の縁もなくて」になりつつある。そんなしあんです。
私は名主の跡継ぎだ、という話を前々回(私のnoteで言えば前回)したが、蔵は潰してしまったので、屋根裏か、仏壇の裏か、はたまた近所のお寺に残っていると信じている過去帳を見る以外に歴史をたどる方法はないようである。
数百年続いている、と親含めた親戚から言われてはいるものの、その証拠を見せてもらったことはない。(まあ祖父は生まれたときから同じ家に住み続けていたので、その時点で100年にはなるのだが)
本気でファミリーヒストリーしてほしい。(笑)
緑青さんの、「幸せの鋳型」の話は本当にそうだと思う。他にも例えば「好き」とか、そういう抽象的なものって、自分の漠然とした経験値で語りがちよね。
前にも書いたが、「幸せ」とか「好き」とか、そういうものの中身を分解してみると、当人が何にとらわれているのか、意外な結果に繋がるかもしれない。ぜひやってみてほしい。まあ、鋳型にはまっている人はやらないんだろうけど…
肯定的な感情のみならず、「死にたい」などの感情も似ていて、何が自分をそう思わせるのか、どんなときにそう思うのか、それによってどんな結果を期待しているのか、など分解してみるといいよ、ということを以前とある方から聞き、なるほどと思ったので備忘のためにもここに書いておく。
話は戻るが、確たる「家」があることに憧れがある、という話を緑青さんがしていた。私の代、もしくは父の代になったらぜひうちに遊びに来てほしい。緑青さんなら口伝てでしかない私の家系のヒントを見つけてくれそうな気がする。
「家」がある身として、「家」がある憧れというのも理解できるし、家を持たずに自由であることの憧れもある。だって夏休みと冬休み、旅行なんて絶対行かないよ?(笑)
つまるところ、隣の芝生は青く見える、というやつだ。
私の父も矛盾したことをよく言う。継いでほしいと言いつつ、家を気にせず自由に生きてほしいとも言う。
それは、父自身が自由に生きられなかった(父は長男であるという理由で、本当は行きたかった文系ではなく、工学系の大学に進学し、大学院進学も諦めている)ことの裏返しだと知ってから、「何やねんこの人は」と思うことは減った。
結局自分も、「親ならこうあってほしい」というものを父に押しつけていたのかなあと感じる今。ひとりの人間、として見ればそこまで腹が立つこともなくなった。まあ、姉はひとりの人間として見れば見るほど余計に腹が立つので、これが解決策になるとは思っていないが…(笑)
さて、タイトル詐欺になりつつある「生きやすさ」。生きやすさって何だろう。
正直、跡を継ぐ私の将来に生きやすさが待っているかというと、あまり思えない。
でも、それでも私は当主として生きることを選ぼうとしている。
私は生きやすさと「期待」を天秤にかけているのだろうか。「生きやすさ」って何だろう。
答えはそう簡単には出ない気がする。
(しあん)
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