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冬のお化け屋敷ー極端が好まれる時代に

最近読んだ「最後の角川春樹」。ご存命、というか今も元気いっぱいの角川春樹さんの評伝です。面白いエピソード満載なのですが、その1つに1970年代の角川文庫ブームを支えたミステリー作家、横溝正史の再発見に纏わるお話が好きです。 角川さんが回想するに、
「当時、松本清張のような社会派ミステリーの作家は他社に押さえれているので、ウチ(角川書店)は“お化け屋敷”で行こうと考えた。」
この“お化け屋敷”という言葉、1960年代にあの松本清張が横溝正史をこっ酷くやっつけた時の表現です。つまり、横溝さんが書く小説は、
“「特異な環境」を舞台に「特別な性格の人間」を登場させ「物理的なトリック」を使い「背筋に氷を当てられたようなぞっとする恐怖」を醸し出す、“お化け屋敷”のようなもの”と蔑視し、そこから平凡な人が登場するリアリズムの小説に脱却しようと主張したんだそうです。
最近の小説やドラマ、こんな「特別な性格の人間」や「特異な環境」を設定することが第一になっているように感じますが、いかがでしょう。
極端なことを求められる時代なんでしょうか。

もう一昨年のことになりますが、京都のある有名な牛肉割烹を訪ねました。
和牛を、店主が提示する最良の食べ方で楽しめる、というお店です。実際、名代に違わず、とても美味しく、かつ疾走感のあるコース料理を堪能できました。その10 品以上連なる食事中、ふと浮かんだ浅見が、今の時代の料理は美味し過ぎるのでは、という事でした。美味しいのが何が悪い、と言われそうですが、全てがすごく美味しいというは、実はコース料理の構成の歴史の中で、ここ数年の大変革だと思います。

その店にはソムリエがいらっしゃって、ペアリングを提供していました。そのペアリング、ほぼ完璧な印象。一皿一皿の料理の特徴を捉えて提供されるワインや日本酒の一杯は、ふさわしいものでした。帰り際に、「大変な仕事ですね」と思わず、声をかけてしまったほどです。
というのも、和食には、どうしても付けるもの、醤油だのぽん酢醤油だの汁気のものがたくさんあるからです。もちろん、汁物自体も一品です。汁に浸った料理もあります。汁に飲み物、酒を合わせるというのは難しい。この店、それぞれの付けダレも美味いのです。ポン酢醤油、飲み干してしまいました。もったいないオバケは恥ずかしい。。。
ペアリングの構成法は料理素材だけに合わせるだけではなく、味付けとの拡張性も必要です。口の中で一体となるからです。結果として、この牛肉割烹では、口に入るもの全てが強い旨味を感じさせます。旨味爆弾が次々と口中で炸裂するのです。この驚き、ぜひまた次回も感じたいと思っています。

同じ旅の中で、誰もがその名前を知っている料亭も訪問しました。冬の入口の時期を魅せる料理の数々は、隅々まで料理技巧が施された、素晴らしいものでした。美味しかった。でも、その時、前日の料理より薄い、という印象を持ちました。味が薄いのではありません。旨味の出し方が薄いと感じたのは事実です。
その旅の後、東京でネットを漂っている時、興味をそそる書き込みを見つけました。ちょうど同じ時期に、ある女性インスタグラマーが、ワタシが訪問した店が東の正横綱なら、西の正横綱と言われる料亭を訪問しており、その感想として、あまり美味しくないのに(値段が)高い、と店名も上げて、写真付きで載せていました。この女性、結構な数のフォロワーを誇る、所謂、セレブ生活を見せている方。パートーナーと都内だけでなく、日本中の有名店を訪れているようです。それも流行の、予約が難しいお店の数々。

旨味が連続する料理を食べ、普通だと思っている人には、味に緩急つけた流れを基本とする料理が物足りなく感じているのではと、思いました。
考え方、構成法が全く異なる料理が、同じ日本料理の世界に存立しています。これは例えばフランス料理における、ヌーベル・キュイジーヌとそれまでの料理、という二項対立とは違います。両極端に位置し、並び立っている、とでも言いましょうか。

料理の世界も「演出」が格式の1つのようになっています。オフィスのエレベーターの中で、「手渡ししてくれるような高級なお寿司屋に行きたいね」と若い人たちが話しているのを聞きました。“手渡し”。。。ワタシはちゃんと、付け台に置いて欲しい。流れの中で、わざわざ手渡しという儀式を取り入れている店があるのは知っています。変な儀式を仕込んだものです。海老の握りの尾を客側に向けて垂らす、なんてのもあるようです。味だけではなく、見栄えも、という、贅沢も極まれり、なのでしょうか。
ワタシの幼少の砌、JR総武線浅草橋駅の下に、立ち食いのお寿司屋さんがありました。5人も並べば一杯のカウンターのみ。その店、カウンターの前に立つと、自分の付け台の下に、蛇口の先端、スパウト(水の吐き出し口)があることに気づきます。客に対して1つづつある勘定です。これは何のためかと言うと、付け台に置かれた握りを手で口に運んだあと、その手を濯ぐためです。水を出すには、スパウトの口に栓がついていて、それを捻るのです。つまり栓は毎回、手と一緒に洗われるようになっています。お茶と一緒に小さな日本手拭いが添えられているので、それで手を拭きます。浅草橋駅は問屋街の駅で、荷物を持った忙しい商人が利用する駅。その人たちが、忙しい合間に、寿司を“摘んで”、お腹を満たす店。「小僧の神様」の世界です。とにかく、客は置かれた寿司をちゃっちゃと口に入れて、お茶で口を、水道で手を濯いで、店を出て行きます。注文以外、ほとんど会話もなし。1985年に浅草橋駅が焼き討ち(こんな言葉、暫くぶりに書きました。でも昭和60年の事ですよ)にあって、その後、駅が改修され、無くなってしまったように覚えています。実用一点張りの店でしたが、味に問題はありませんでした。

ネットの料理店訪問記事や評価記事に多い、お子様形容詞(と呼ばせていただいています by ワタシ)が「ふわふわ」や「唯一無二」。「ふわふわ」の鰻という表現を見ると、なんだかなぁという感じ。鰻もそうですが、穴子や鱧にまで、この言葉が使われています。柔らかいものが美味しいというのは、なにかが衰退していることを表現しているような思います。また、「唯一無二」も他との比較を避ける気持ちが表れているようにも思います。歯ごたえがあるものを避ける、ぶつかることを避ける雰囲気があります。
ワタシは残念ながら訪問するチャンスを得ることができなかった西健一郎さんのお店。氏の本に、美味しかったものの思い出として登場している、神戸にあった穴子寿司の青辰。ちらし寿司か太巻きか、どちらが良いのか、意見が分かれますが、確かに美味かった。この青辰の穴子、少なくとも「ふわふわ」ではありませんでした。ふっくらしていると言うか、やわらかいがしっかりとした穴子でした。家で食べることが多かったが、一度だけ、店で買って、それを何故か、神戸港で海を見ながら食べたことがあります。これまた何故か、とても美味しかったことを覚えています。余談ですが、ワタシの親父は毎度、朝7時頃に予約の電話を入れていました。なぜかと言うと青辰は朝3時から仕事をしているからだと。

味覚の世界、レストランの世界は、旨味だけではなく、一人当たりの単価もどんどん上がっているのが今の状況です。でも、求める人がいるのならば、その層を満たすものが登場するのは、当然のことで、そこに性質としての正邪の別はなく、また正義や悪という概念を持ち込む必要はありません。自然に極端は発生します。

翻って、昨今、政治や社会の課題分析に使われる「分断」という言葉の反対語がわかりません。というか、反対の概念は無い(または提示されていない)のでは。誰もが同じ、というか、同じ生活レベル、同じ収入、などなど、「同じ」ということはあり得ないと思います。それを一部の識者、それを担ぐ一部のメディアが、分断という状況に貧富の差を持ち込み、煽り、利用しているように感じます。

実態は、普通と極端が際立っている時代だと思うのです。

今日はやや、いちゃもんになりました。
ワタシは政治学者でも経済学者でもありませんので、社会情勢の分析をしようというわけではありません。時代が、行ききったものと普通のものの両極端になっているだけなのではというお話でした。
そんな時代は、過渡期なのか、動乱期なのか、果たしてどちらでしょう。

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