日本の「デナイ・カルチャー(Deny Culture)はどこまでも
キャンセルカルチャーという言葉があります。SNSで生まれ、今やアメリカでは政治的分断の証ともされているこの言葉、日本では、今の基準からみれば、政治的・同義的に好ましくないことを過去に行った政治家や著名人の業績全体や人格を否定すること、でしょうか。
国を挙げてのキャンセル・カルチャーが禍根となったのが中国の文化大革命でしょう。1966年から1976年の間の毛沢東による政治の主導権を取り戻すための政治闘争でした。学生たち紅衛兵と呼んで扇動し、暴動と虐殺の尖兵に仕立てました。彼・彼女たちは「毛沢東語録から学んで正義を実践して」いたのです。
しかし、毛沢東が死に、その誤りが正されます。若き紅衛兵たちは、激しい弾圧を受け、下放(=強制的に地方に送られ農業に従事)させられ、多くが一生を終えました。およそ50年を経て、紅衛兵の生き残りたちの反省の弁に「皆が権力に飲み込まれていた」というのがありますが、国全体がブームに巻き込まれたように、感情的に突き動かされていたのでしょう。
キャンセル・カルチャー、日本では「デナイ・カルチャー」(私の造語です)になっているように思えます。英語の「deny」という単語は、
・(~が事実ではないとして)否定する
・(価値などを)認めない、信じない
・(人を)知らない、(人との関係を)否定する
というのが主な意味で、過去や現在の行為や状態を否定するのに使われる単語で、未来のことに対しては使いません。
「ネットで学んだので、真実を知っている」とか「報道の自由に反する」から、闇やら忖度やらを否定することに躍起になっている、日本のデナイ・カルチャーの原動力となっているのが「道義的衝動」ではないかと思っています。
作家・小松左京さんの短編「変換」(1966年)を思い出しました。ネタバレになって恐縮ですが、ストーリーは「道義的衝動」から、日本で北海道をアイヌの人々に返還することから始まります。これをきっかけに、世界にこの動きが広がります。全民族がこれを行い、どんどん人口が減っていきます。そんな中、謎の生物とされてきたヒマラヤの雪男が実はネアンデルタール人の末裔であることが判明し、ついに彼に原生人類ホモ・サピエンスが地球を返還して、滅びていくというお話です。
道義的衝動からのデナイ・カルチャーは、日本社会の良いところも含めて、全てを滅ぼします。
大切なのは、その出来事を知っている事です。その上で、自分が今、生きている時代に最適な対応を考える事です。無かった事にする、書き換える、さらにその時点に戻って謝るとなどというのは意味がありません。
「道義的衝動」を揺さぶろうとする人々に気をつけましょう。