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「時間の庭」プロジェクト

 少子高齢化、地域コミュニティーの解体、そして若者の離脱。地域が抱えるこれらの問題はこの国の共通した課題であり、ここ国東半島に住む私たちにとっても差し迫った問題です。


Winter is coming. (冬来たる)


 日本はこれから世界のどの国も経験したことがない、超高齢化社会を迎えます。毎日たくさんの人間が死んでいきます。でも出生率はなかなか上がりません。人口減少社会です。そこに経済発展はありません。長い長い坂道を下っていく右肩下がりの社会です。税収は減少し、国が高齢者のお世話をすることが困難になってきます。


 冬の時代は皆が肩を寄せ合って生きていかなければ乗り切れません。


 けれども日本では戦後資本主義社会の発展とともに村落共同体が解体され、若者は都市部に流出し、大家族が核家族に分解され、さらには「家(いえ)」そのものが個々の孤立した人間へと分解されていく過程のなかにあります。資本主義にとってはそのほうが都合が良かったからです。なぜならモノやサービスがたくさん売れるからです。結果として貧富の差が広がり格差社会と呼ばれるようになりました。


 しかしながら人口減少社会が貧しい社会だと、あるいは経済的発展だけが豊かな社会をつくるのだと決めつけてはいけません。少なくなる人口の中でどのようなカタチの豊かな社会が可能なのかを考える。


 いちど解体されたものはもう元には戻りません。だから私たちはこれから新しいカタチの共同体を作ってゆくのです。


 六年前、私は「国東時間」を発表しました。当時から週休三日制ばかりが注目されてきましたが、本来の意は別にあります。


 「(時間の質は均一ではない。それぞれの地域にはその地域固有の)国東には国東の固有の時間が流れているはずだ。その時間を積極的に身体に取り込みながら、国東半島の風土文化の最も古い地層に直接根をおろして、ふたたび豊かな地域社会を組み立てることができるはずだ。


 これが「国東時間」の考え方です。


 この場所に流れている「時間」は今生きている私たちだけのものではありません。すでに逝きこの地に眠る人、そしてこれからこの地に生まれ出でようとする人。つまり「今いる人、もういない人、まだいない人」にとって同時的に時は流れているのです。

今いる人


 もっとも重要なのは二つの境界部分、つまり「死」と「生」のポイントです。この二つの境界部分に私たちの持てるリソースを集中することで、今いる私たちの世界がとても豊かに結実していくのだと私は考えます。循環する自然の中で、私たちの「死」を丁寧に扱うこと、安心して眠れる場所を確保することが、「生」のポイントをも賦活するはずです。


 「時間の庭」プロジェクトは国東半島に国内最大規模の樹木葬による庭園型墓地を建築する計画です。そして世界で初めて「死」を中心に据えた都市計画をこの国東半島において構想するものです。


 現在私たちはスウェーデンで開発された最新の埋葬方法を検討しています。火葬によらないその技術は遺体を極低温状態で分解し、デンプン質の容器に入れます。この間体内に含まれる水銀など有害な物質が取り除かれ、この状態で地中50㎝に埋め自然に還す方法です。半年から一年で完全分解された遺体は植物の栄養となって自然のなかで循環します。史上最も自然に近しい埋葬方法だといわれています。


 私はこの埋葬方法を国内技術によってさらに発展させながら国内の第一号プラントを国東半島に建築したいと考えています。


 故人が埋葬された場所にはいわゆる墓標はありません。生前に故人が好きだった樹木や草花が植えられます。そして遺族にはその地点の緯度と経度が記されたプレートが渡されます。その場所はGPSによって正確に記録され故人の情報とともにサーバー上で管理されます。お墓参りに公園を訪れる人たちはスマートフォンを使ってその場所まで誘導されます。


 たとえば、そこには一本の木が立っています。樹高三メートルほどのまだ若いクスノキです。


 “・・・四月のある晴れた日曜日の朝。新緑の庭園。昨夜までの雨もすっかりあがって雲間から白い光がさしてくる。空気は澄みわたり、土と草とクスノキの匂いが層を成して流れてくる。芽吹いたばかりの透けるような若葉に水滴が煌めき、周りの芝や草花も折からの陽光を浴びて雨水を粒子に変えて大気に放ちはじめた。天上の小鳥のさえずりと芝生を駆け回るこども達の無邪気なはしゃぎ声に混じって何処からかバイオリンが奏でる旋律が聞こえる。ブラームスの弦楽五重奏曲第一番。振り返るとさきほど通り過ぎてきた白い円形劇場で老人たちのアンサンブルが音合わせをしているのが見えた。そして、ふと視線を外すと、その白い劇場の彼方に無量の水を静かに湛え銀色に輝く海があった。草の上を風がわたる。微かに潮の香りがはこばれてきた。”
 そういえば、私はどこからこの風景を見ていたのだろう。ここにお墓参りに訪れた人の視点だったろうか、あるいは私自身があの若いクスノキだったのか、もしかしたらあのとき吹いていた風の中であったかもしれない。


・・・これは未来の夢です。


 「死」の問題はこれから百年間、日本が直面する大きな課題です。超高齢化する社会の中で毎日大量の死が生産されます。すでに都市部ではお墓の問題は深刻な状況にあります。近代以降お墓は家制度のなかで管理されてきました。そして現在「家」が解体されてゆく過程で従来の墓を守っていくということ自体が困難になってきました。私たちは死に至る時間、そして死後の時間を再設計することが必要です。安心して死ねる場所がなければ安心して生きることもできないからです。


 「時間の庭」は近代以降人が森を切り開いてきた、すでに造成された土地のうえに建設されます。かつての用途として経済的に採算があわなくなった土地はこの国にはたくさん放置されています。これも資本主義社会が残した負の遺産です。私たちはそこに草木を植えて墓地庭園として整備してゆきます。そしてまた数百年後にはふたたび森に帰って行きます。


 この「時間の庭」プロジェクトが進行して行く過程で、この計画に共感する人たち、そして一緒に建築に参加しようという人たちが全国から集まってきます。「お墓共同体」とも呼ぶべきこの共同体は死後の時間と土地を共有するという約束のもとに集まります。この新しい共同体が「時間の庭」を運営します。


 もちろん「死」は一つのポイントであり、死に至る時間を丁寧に設計することが必要です。終末医療施設や介護施設はもっと必要になるでしょう。また終の住処として「老人村」もできるでしょう。その村では医者や看護師が常駐し村内で看取りができるような環境がつくられます。あるいは長期滞在の看護ホテルもできるかも知れません。


 「時間の庭」の建設から始まるこのプロジェクトは死に至る時間を遡りながら機能と施設を拡大し、ひとつの都市計画となって進行します。「時間の庭」に眠るのは土地の人たちだけではありません。県内はもとよりこのプロジェクトに共感する人たちが全国から集まってきます。幸いなことに国東半島には空港が接続しています。お墓参りに訪れる遺族や友人たちによる交流人口も増えるでしょう。宿泊施設も必要です。これは世界で初めて取り組もうとしている「死をテーマにした都市計画」です。


 そしてこのプロジェクトは日本の何処ででもできることではありません。国東半島の風土文化そして場所性がこれを現実のものにすると私は確信しています。死者の鎮魂。ある意味では国東半島の地勢そのものが墓標になるのかも知れません。


 「死」を丁寧に扱うこと、自分たちの「時間」を丁寧に扱うことこそが今を生きる人たちの生活をより豊かにし、そしてまだ生まれていない人たち(未者)に向けて「早くおいで」と呼びかけることになるのだろうと、私は考えます。


 「時間の庭」プロジェクトはこのあとクラウドファンディングによって資金集めを始める予定です。まずは調査・研究の第一段階です。長い道のりになりそうですが皆様のご賛同とご協力を切にお願い申し上げます。


 最後までご精読いただきありがとうございました。

平成三十一年三月二日



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