2024/04/18 『親ガチャの哲学』刊行イベント 感想 @下北沢B&B
これは品田遊さんと戸谷洋志さんのことが好きなファンが書いたnoteです。
どれくらいかというと、仮面の質感って意外とツヤあるんだな〜とか、めちゃめちゃ恐縮しててどっちの刊行イベントか分かんなくなってるじゃんリアぺのことに触れてくれてありがとう くらいのファンです。
箇条書きで何点か印象に残っているお話に対する感想を書きます。
保育園落ちた日本死ね について
品:日本が一つの人格であるかのように、こどもを育てなさい産みなさいと言っているような感じ
人として捉えてるから死ねというワードが出てくるんじゃないか
→言葉の使われ方からその人の思想を読むという考えになるのが品田さんっぽいなと思いました。対して戸谷さんはまず考えがあってそれをどう言語化するかなというプロセス(多分多くの人はそうだと思います)
私が哲学的な題材を見てきて思うのが、こいつらずっと同じことで議論してんじゃんって。まずは思想やトークテーマがあって、それをどう解釈するかが哲学者によって違うんだな、というイメージ。
品田さんはその逆っぽいな〜と。若干メタい感じ。
品:日本自体が少子高齢化社会的についての具体的な制度をすっ飛ばして子供を育てなさいと言っているのだったら、母親もまたすっ飛ばして言って良いんじゃないか
→やられたことはやり返してもいい論、
私はあんまり感じなかったけど、読んでてそう思う人はいると思うな
死生観 について
戸:死はなぜ悪いことなのか?議論は多く積まれているが、まだ解決されていない議題だと思います。何となく、死=悪いことと感じられている。
→エピクロスの話が上がったとき、10年前もらったレジュメのふ〜んわりとした記憶が蘇りました。
私は品田さんが「死ぬのって怖い」と話していることを知っていたので、2人の死生観の話をすこし聞いてみたかった気もする。
ハイデガー について
品:ハイデガーについてもう少し詳しく・・・
→物分かり悪くてって言い回しがすごく印象的だな〜
物分かりが悪いのではなく、みんなが思うであろう疑問がポコポコ思いついてきて煩雑になっているだけなのでは? まあきっとそれも自分で分かっているのだろう。
ハイデガーってほ〜んと理解するのが難しくて、正直『親ガチャの哲学』を読んでいても何となくで読み進めたところだから、ここで初学者に寄り添ってくれたの嬉しいです。いや普通に疑問だったのかもしれんけど
戸:ハイデガーって倫理についてほとんど述べてない
→そうなの!!!!!??!!?!???!?!?!?!
マシンガンで銃を乱射する人を目の前にしたハイデガーの構図面白いっすね
どうして本を書いているのか?の質問 に対して
品:昔から文章を書くのが得意だったから仕事にしている
他者からの共鳴を求めているのではなく、、
あえて述べるなら、あらゆるしがらみがない、しがらみから抜けた誠実な世界に行こうとして言葉を使っているのかな
→ちょっと言い回しは曖昧だ、、メモが機能してないっすね
品田さんは、人は嫌いだけど言葉は好き、なイメージがあります。
そして自分のことは鏡も見ないし声も聞きたくないとも仰っています。
言葉は人間が作るものだから切っても切れない関係なのは間違いないと思いますが、『正しい人類滅亡計画』の執筆について、嘘は書いていないというお話もありましたし、自分を自分たらしめる方法の一つが言葉なんでしょうね。
何言ってるかわかんなくなってきた
ガチャはなぜ”親”なのか について
品:なんで親ガチャなんだろう?もっと広いコミュニティに向けても、国ガチャとかでも良いじゃないですかね
→ここは質問したかった議題でもあります。
戸谷さんが自己責任論と自由意志?が広まってきて、カウンター的に広まってきた考え方とおっしゃっていましたが(言い回し違うかも)
こんなに流行ったのは
・家制度的な考え方が古くからあった
・でも今はそんなの古臭い考え方よねって人が多い
・親の存在って絶対じゃないんだ!といつか気づく時がくる
・ガチャで出たものの価値って自分で決めていい
・親に対して自分が値付けをしている感覚になる
からかな〜と個人的には思っています。
一種の反抗期的な感覚、親に反発する感覚に近いイメージ。
また、新しく作られる言葉はあるあるであればあるほどバズると思うのでこんなに流行ったのかな、とも思います。
匿名ラジオリスナ〜は蛙化現象の話を聞いていると思いますが、あれもあるある感情に名づけをしたからあんなに流行ったんだなあと
『親ガチャの哲学』には家制度的なことには触れていなかったので、すこし聞いてみたいな〜と思いましたが、
美しさについてどう思うかの質問の方が素敵だと思います。
こんなくらいかな?
もっと書きたいことは多くあって、もっともっと字に載せたいのですが、いかんせん最近は爪が長くてタイピングがしにくくて、、でも爪は可愛くて幸せなんですよね。
最後に、自分が忘れないように疑問を残す
本を読んで、刊行イベントを経て、私がいちばん考えたいこと
自己肯定感の話がありました。
ここで言う自己とは、ある意味では、私が私であること、なんだと思います。
私が私であることを肯定すること。
一方では、(本名は言えないのでnoteのアカウント名で述べますが、)
私が椎菜であること、なんだと思います。
私が椎菜であること、それはつまり社会的な役割だったり、仕事で求められている能力だったり、友人との交流関係だったり、パートナーとの愛情を、椎菜として発現することに近しいです。
私が私であることは他の誰にもわからない感覚だと思うのですが、
私を伝えようとする時、必ず椎菜というフィルターを通して他者に伝えることになります。
だから私という波長が、密かに、互いに、気づいた時に
共鳴した時にしか得られない癒しがあるのでしょう。
おそらく自分は私肯定感が低く、椎菜肯定感が高い傾向にあると思います。
この差分を考えることによって、自分の人生を振り返りたいと思います。
終わり。
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