「多様性カツアゲ」ダメ、絶対!人ひとりの中にある「多様性」

様々な人が持つ様々な個性の総体を「多様性」とし、「多様性」が受け入れられるべきもの、善いものとして強調される今の世の中は、今までの「周りと同じことが最善」とされていた世の中で、頑張って同質化に励んできた人々が表に引きづり出され、急遽「己の個性とはなんぞや」「個性を出せ」とカツアゲされている舞台にも見えてしまう。人々はインスタントな脅しに、ものや経験を買い、装うことで応急処置をとる。

個性とは、今日明日に用意できるものではなく長い時間軸の中で無目的的な選択を蓄積したのちに、振り返ったら「なんかわからないけどそこにあった」感覚のものであると思う。そして多様性とは、人の集合体の中にだけではなく、人ひとりの中にあるものであって、それを互いに発見し受容したり活かしたりする感覚を育むことの方が、「多様性」を美しくアドバタイズし人々の消費活動や不安観念を煽る手段にすることよりも重要だと思う。それに気づけないと苦しいよ。

下記はひとりの人物の中に多様性を発見する私の過程。ひとりの中にある多様性に気づくことができたのなら、その気付いたものの総括が、ふっとくてまあるい無作為の個性だと思う。

私の人生には尊敬し、信仰し、善悪や言動の羅針盤にしていると言っても過言ではない人が何人かいる。半年前、その中の1人の本を私は全て手放した。その人とのあらゆる繋がりを切断した(根絶したつもりでいた)。

私はその人の、本や店を媒介して世間に露出されたビジネス活動しか知らなかった。私にとっては、そのビジネス活動のみがその人を知る手段であり、その側面のみを基に、その人の人間性を想像し、自分の理想形態として位置付けていた。勝手に神格化していたみたいな。

あるとき、その人に直接対面した時に、私の幻想は崩れた。その人は、人間である以前に、オスだったのだ。その人からのアプローチに戸惑いが隠せなかった。尊敬している人に相手にされている高揚感に加えて、でもその相手という、対象とされている正体は、「人間としての私」よりかは「メスとしての私」であって、消費財としてのコスパを期待されているのではないか、という現実的なツッコミが自分を襲ってきた。前者の仮説を嘘でも信じていたかったから、長期間ひとりで揺れ動いて、しんどかったなあ。

自分を取り巻く矛盾の仮説(妄想)を抱えきれなくなった私は、感情を整理し平穏な精神状態を取り戻したいがために、その人を自分の負の感情の要因とし、その人が生み出した本や商品や情報を人生から排除してしまった。

最近、ふと寄った店で、その人の品が目に留まり、ついつい手に取ってしまった。自分の中での時効なのか、その人の時が流れても変わらない一貫性があり忖度のない言葉に重みや信念の頑固さを(ポジティブな意味で)感じられるからか、両方なのか、、、「やっぱり、この人の人、もの、ことを見る目は、感じる力は、そしてそれを言葉にし、行動にし、体現していく姿には、賛成だし、まだまだ敵わねえな。自分が生きてる時代に存在してくれて、ほんとに有難いな。」と思った。(そして、アンテナを取り戻してその人の活動を間接的にこれからもキャッチしていきたいと感じた、ちょっと悔しいし少し恥ずかしいけど。前と違うのは、自分の中でその人の位置付けが神からライバル、もしくは参考文献に変わったこと。)

半年前までの私はその人の「オス」という部分のみに焦点を当て、受容し、アレルギーを起こしてしまった。人の魅力は、人間性は、一部分だけではジャッジできない/したら勿体無い。「オス」以外の余白には宝物やヒントがたくさん詰まっていて、そこの領域は、「オス」=その人として処理してしまっては、触れられないのだ!

私は今まで数えきれないほどの失言や、人を傷つける行動を生産してきてしまっている、と思う。それは誰にでもあること。今、私がこうして図書館の中であぐらをかきながらキーボードを殴りウンチクを展開できているのは、私の不器用な産物以外の要素や、産物がこの世に生み落とされる前後の時間軸に目を向けて、私と向き合ってくれた人のおかげだと思っている。要するに、私の中にある多様性に目を向けてくれる辛抱強い、もしくは体力のある人の努力の結晶が、ワタシ!
本当にありがとうだし、私も、母や友人やスナックのママやお客さんにも、そういう風に膝を突き合わせて向き合う姿勢を貫いていきたい。
「多様性」や「個性」というカッコ付きの記号に踊らされず、目の前にある人の中を、一喜一憂せず、深呼吸を繰り返しながら眺めるリハビリ中でごやんす!いうのは簡単だけどやるのは難しい!



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