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本物と偽物
こんばんは、「WTFブログ」です。
あなたが相手を失ってどれほど辛かったか、どれほど寂しかったかを考えると息が出来なくなる。
分かってほしいけど諦めようという思いや、あなたの抱えている感情があなたの中だけにあるとすると、とても辛くなってしまうこともあるのだろう
最近もまた、本物と偽物についてよく考えている。心から人を想った事があるからこそ、想っていない時間がやけに目立つ。
自分は他者からもらった叶えるべき事を叶えたけれど、それは自分の個性を叶えたと言えるのだろうか?
叶え終えた時に新しいものが浮かばないのは、本当にそれだけが自分にとっての全てだった、心の底から本気で大切で、その気持ちに嘘偽りがなく、純度100%で向かっていけたから、なんで作れたのか自分でも分からない、妙に距離が遠く思える。それは今が偽物ということ?
すごく悲しい。四畳半、物は変わらないはずなのに、自分の気持ち一つで部屋が暗く見えてしまう。言葉も発する事なく一日が終わっていく。嫌いな家族の帰宅音や足音に囲まれ、ストレスが慢性的に蓄積されていく。同じ世代の若い人は遊んでいるのだろう。笑顔の正反対には何があるのだろう。想像する力もないのかもしれない。
芸術という言葉では、何もしないことも芸術と言えてしまう。だからこそコンテストや何かの賞を獲得して、自分の中の芸術世界の価値を生み出すべきなのだろう。「作品が世間に評価されなくてもいい」というのは自己満足に近く、何もしない事を芸術と呼ぶのは慢心に似ていると思う。
自分を強く偽物だと思う。学校での同級生との恋愛、自然な出会いと同じなのだ。自然に出会って付き合う事が出来るのなら、マッチングアプリなどを使用する事はないし視野にさえ入らない。だけれど何かのズレがあって、訳ありの環境に身を投じることになる。
自己啓発本だってそうだろう。好きで努力できる人はわざわざ頭を使って地図を広げたりはしないのだと思う。知能的な成功は何がズレている。例えるならサッカーで、本能的にサッカーを日々練習している人と、知能的に成功というフィルターを通してサッカーを見ている人では全然違う。
知能的に見てたら本能的よりも夢中から外れた状態なのだから、それは半燃焼的、80%は知力で20%は確かに好きなはずの体力という状態になり、それを他者が見れば「この人はどこか可笑しいぞ」と気づくはずなのだ。
本能的に100%サッカーに捧げている熱中状態の全燃焼のような人が好きだ。つまり、私は本物と偽物の分類を自分で作ってしまっていて、勝手に苛まれたり苦しんでいるのだろう。
年末は厚生労働省の相談窓口を利用した。自分のこころが逼迫していて、行動できるけど心だけが変な状態にあったから。
例えば、ゴミの日にできる限りのゴミを出したいから、私に弁当などのゴミを消費してほしいっていう状況があったとして、消費しない事に保護者は怒ることがありますが、移せないものは別として、それはお皿に移して弁当容器を捨てたら解決という道もあるけど選ばない、本気でゴミを出したかったらお皿に移して弁当容器を捨てる道もある、というのは心が触れ合ってないというか、やる気が半燃焼的というか、これはどういう事なのでしょうか。
言葉足らず、半燃焼的な教育、全振り出来ている訳じゃないのに「私はこんなに頑張っている」。
本気で思えているなら本気の選択は選べる。ゴミをできる限り捨てたいなら、皿洗いなどが面倒くさくても皿に移すだろう。「80%よく出来ました」「20%は甘えてました」この隙間はどうやって埋めるのだろう。