胃腸弱小部
こんにちは。端山です。入社してからしばらく本を読まない日々が続いていたのですが読書家の友人達に触発されて最近また色々読み始めました。仕事をしていると自分の経験を吸収するので精一杯ですが本は色んな人の経験を吸収できるので楽しいですね。
今回は読書と知識の吸収について話したいと思います。
僕は大学時代に哲学にハマったことがありまして、カントの『判断力批判』やスピノザの『エチカ』、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』などといった哲学書に果敢に挑んでいました。目の回るような難しい文を写し、悟性や理性などといった熟語をノートに書き散らして一日数ページのような進み具合で数ヶ月を過ごし、いざ人に説明しようとすると悲しいことにさっぱり分かってなかったんですね。難しい本を読むこと自体が目的になっていて理解が後回しになっていたんです。
難しい本というものは厄介で文字に目を滑らせると何かしら分かったような気がしてしまいますが、いざ文章や言葉にして出力するとたちまちその理解の薄さがバレてしまいます(聞き手を煙に巻いてごまかすくらいはできるかもしれませんが)。
読書と知識の関係は食事と栄養に似ています。むやみやたらに食材を口に詰めても消化不良を起こせば顔色は悪くて痩せ気味で頼りない、そんな姿は初めから少食の人よりもかえって不健康で情けない限りです。
これは自身の反省を踏まえて断言するのですが、物事というのは想像以上に自分もまるで分かっていません。ですから難しい物ほど出力をするときは、ご飯をよく噛んでドロドロにしてから飲み込むように多くの人に理解できるような簡単な文に落とし込んでからにするべきです。もちろん大胆な一般化や単純化は間違いを生むこともありますが柔軟にその都度修正していけばいいのです。名著の作者というのは大体その世代の大天才ですから彼らの言葉、出力をそのまま消化するのは極めて困難です。一番良くないのは間違いを恐れて作者の文章の引用に留まり、自分で考えることを放棄することです。こうして生まれた文章や言葉は一見高尚で知的な印象を聞き手に与えますがその実態はオウムやレコーダーと変わりません。
多くの人に理解できるように、と言ってもさまざまな基準があるように思いますが、僕は個人的に"中学3年生レベル、すなわち義務教育課程範囲内の知識で理解できるようにすること"だと思っています。
僕の学科は卒業論文の内容をスライドでまとめて教授陣の前で発表する機会があるのですが、同じ学科のプロ相手ですら自分の研究を伝えるのは想像以上に難儀します。思ったように教授に伝わらず、質疑応答で想定外の質問が飛んでくることも珍しくありません。
その発表にあたって最も助けになったのは、塾講師のバイトで雑談時に中学生の生徒を相手にして研究の話をした経験でした。今思えば迷惑極まりない講師です。しかし生徒達は非常に優秀で、分からない説明を遠慮なく突っ込んでくれましたから、発表原稿の校正だけでなく自分自身の理解の曖昧な部分や穴を再発見できるようになりました。その時の説明は教授陣はもちろん会社の上司や友人相手にも非常に好評で、聞き手が理解しやすい説明の基準をイメージする大きなきっかけとなりました。
"中学生レベル"という言葉が高レベルだと感じる人は多くはないと思いますが、興味深いことに年代や専攻学問などに関わらずこのラインが経験上一番伝わりやすいように感じます。もしかすると、普通の人が口頭で説明されてその場で理解できるレベルが大体この辺りなのかもしれません。
それでも本を読んでいると、例外的に常人をはるかに凌駕したレベルで交わされている議論がある事を知って自分の凡才ぶりを嘆かざるをえません。僕ができることはせめて彼らの議論を翻訳して消化し、少しでも彼らのレベルに近づく努力をするだけです。作者との大きな差を意識しながらレベルを下げて読むのは辛い作業ですが、疑いの余地なく納得できた瞬間は代え難い喜びがあります。
このnoteをはじめ、僕の書く文章は基本的にこの基準に基づいて書いているつもりですが
まだまだ稚拙過ぎたり難解すぎたり安定しておりません。自分の意見ですら油断すると消化不良に陥ってしまうようです。
それでは。