SS 布団 【#霧の朝】 シロクマ文芸部参加作品
霧の朝のように感じるが眠い目をこすり伊之助は寝床のあたたかさを楽しんだ。薄暗い部屋の中は化粧粉の匂いでくしゃみがでそうになりながら、腕を伸ばして宿場女郎を探すが布団にいない。
(もう起きたのか)
畳は古く湿っているのか少し黴びの匂いがするような安宿だ。街道沿いにあるこの宿に決めたのは偶然でしかない、江戸で人を殺して逃げる途中で力が尽きた。宿が数軒しかないような、さびれた裏街道で宿の中に入ると女が立っていた。
「とまれるか」
「空いてるよ」
そっけない女の後ろについて二階に案内されると、布団がもう敷いてある。
「酒のむかい」
「ああ……」
伊之助が殺したのは大工の棟梁だ。弟子として働いていたが、棟梁の娘に手をだしたことで激しい叱責を受けて気がつくと金づちでたたき殺していた。娘も同席していたのでこれも殺した。ただ恐かっただけだ。
(磔は嫌だ……)
人を殺せば首を落とされるか、槍で突き殺される。無惨な死に様は見てきたから判る。伊之助は宿場女郎から湯飲みに酒をそそがれて、ぐいぐいと飲み干しながら、これからの事を考えた。
(浪速まで逃げられれば……その後は真面目に生きよう)
殺した人の事は忘れた、思いだせば恐怖で体が震える。酒をしこたま飲むと女が布団に招き寄せた、体で客から金をむしりとる常套手段、伊之助は女の体を溺れるようにむさぼり、目が覚めた。
「金はあるのかい」
起き上がり薄い布団をはねのけると女が立っている。眼はつり上がり怒りの形相だった、もちろん伊之助は逃げる事ばかりを考えて金をもっていない。
「ああ、あるさ」
「嘘つきな、文無しが、番屋に連れて行く」
伊之助の着物を投げて寄こす。寝てる間に金を抜き取ろうとでもしたのか、金がないのを知っている。伊之助は、すっと立つと女の首を両手でしめた、大工仕事で力があるので首を握り、もがきくるしむ女を殺す。一人殺せばタガが外れて後は次の殺しは容易だ。伊之助は浪速まで逃げて名前を変えて生活を続けながら大工の仕事をしたが、ついぞ所帯はもたなかった。
朝に眼が覚める。薄暗い朝日を見るたびにおびえを感じて汗だらけになりながら起き上がる。特に霧の朝は、心の臓が止まるくらい早く脈を打つ。
(生きていても何も楽しい事がない……)
悪夢のように霧の朝を思いだす、棟梁を殺し泣いて命乞いをした娘を殺し宿場女郎を殺す。あんなに愛していたのに、恩をうけたのに、そして眼が覚める。
霧の朝のように感じるが眠い目をこすり起き上がると冷たい布団の中が妙にあたたかい、布団をめくると女の顔がある、いや男の顔もある。三人がゆっくりと老いた伊之助に手をのばす。