僕が自分を発信する理由。

僕はTwitterなどのSNSだけでなく、ブログなども更新していて、頻度はそこまでであるかもしれないが自分の考え、思いを発信している。では、なぜそんなことをしているかをここから説明していこうと思う。


過去からの教訓

僕は小学生の時にいじめの経験があり、不登校にもなった。その時から思っているのは、

自分を見てくれる人なんていない
いなくたって誰も困らない

ということ。最近はその思考になるまで落ち込むことがなくなり、思っていたな、と懐かしく感じるほど疎遠になった。

こう思っている時の思考として、いじめを受けている理由というのは、自分の存在が邪魔である、相手に対してストレスの吐き出し口になっている、ということが浮かんでいる。

ここで言っておきますが、
いじめは殺人です。
たとえ亡くなっていなくても、それは
殺人未遂です。

いじめをしていたほうは何も思わないでしょう。逆に、楽しいと思っているのではないのでしょうか。相手に対する罪悪感などなく。少なからず、僕はそうでした。しかし、環境が変わった時に思いました。自分のしていることって以前受けたいじめではないか、と。

そこから、自分が発する言葉、行動を全て見直し、相手を傷つけることがないようにしている。だが、自分の文に対して相手がどう思っているかなどのフィードバックはなく、果たして誰も傷つけてないのかは不確定である。言葉遣いも変になる時がある。正しい言葉を適切に使えているかと言われると、そうではないと言える。

残念ながら、僕は障害者のグレーゾーンで、僕の場合は人とのコミュニケーションや言語処理などができない。ただ、そのことを理由にして言葉がおかしくなると言っていいのかと今思っている。

これから僕が感じたことは、
誰かの味方でいることの重要さ。
どれだけ自分が信頼しているかはわからないが、自分は少なからず味方でいると伝えていれば、しんどくなったら僕のことを思い出して頼ってくれるかな、と思っているから。
頼られたい、ではなく1人ではなく頼って支えながら生きていきたいだけ。
究極、相手が生きてくれるなら、僕の命はくれてやる。


役に立つって難しい

自分はこうしてあげたら助かるかな、と思っていても相手に対しては余計だったり、邪魔だったりする。そこの需要と供給は相手と話してからしたほうがいい。でもそれを聞いてするのは友達の関係からするのは荷が重い。だから察するしかない。


結局は人助け

昔から考えていたが、今自分はもうボロボロで、いつ死ぬかわからない。明日死ぬかもしれない。しかも自死で。その中で今から自分ができることは何だ、と思った時に浮かんだのが、

自分よりも必要とされている人の役に立って、助けて生きやすくする。

ということ。
これがただの自己満足だと言われるかもしれない。間違いではない。でも、僕は違うということを伝えたい。

自分は見ず知らずの人の役に立った、偉いだろ
と周りにいばりたいと思っていない。
見返りを求めてそういう行動をしているわけではない。

僕は、僕ではなく相手を優先して動いていてその目的は相手が幸せと思ってくれることであり、さらにいうとその人の人生までも救えたら、と思って自分の考えを発信している。

自分のこの言葉で、文章で誰かの心が軽くなると信じて。


最後に。

途中でも言及したように、僕は言語に対して発達の異常があるため、言葉遣いに違和感を感じるところがあるかもしれない。しかし、これらの文章は悪意を持って作っているのではありません。言葉の感じ方などは無視して、意味だけを考えると読みやすいと思います。

僕がしていることは相手に生きてもらいたいというエゴを押し付けていることを意味するのかもしれない。
しかし、それは世間一般的にいう、自殺してはならない、と言うことと同じだと思う。
逆に聞くが、あなたにそれができるか、ということ。自分を犠牲にして相手のことを優先することができるか。
できないのにも関わらず、しようとも思わないのにエゴであると言うことは果たして真っ当な行動なのだろうか。

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