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『ゆきてかへらぬ』SONGS OF DAYS PAST

監督・根岸吉太郎と脚本・田中陽造のコンビがまさかの復活。とはいえ、そのホンは書下ろしというわけではなく、何十年と昔からあった幻の脚本であるらしい。
根岸吉太郎は『ヴィヨンの妻』以来、田中陽造は『最後の忠臣蔵』以来でどちらもそのキャリアに10年は空いている。その間、日本映画界も様々なことがあった。もはや撮影所時代の日本映画と今の日本映画をつなぐよすがは、その善し悪しはおいてもうどこにもないのではないかと近頃は考えていた。そこに来てこの座組である。メインキャストに据えたるは当代一流の広瀬すずに岡田将生、そこに俊英・木戸大聖を抜擢して大正時代を舞台にした長谷川泰子・小林秀雄・中原中也の「奇妙な三角関係」を描こうというのである。これほどリッチな映画があるだろうか。実際、セットから衣装までしっかりと作りこまれたこの映画は名監督と名脚本家が旬な俳優と組んだ幸福な映画に偽りなく、日本映画の金看板を背負うにこの上ない珠玉の一作である。
主人公は広瀬すずが演じる長谷川泰子。彼女を中心に展開される三角関係。これは田中陽造のお家芸といっていい。一方、彼女を取り合うことになる中原中也と小林秀雄の間には不思議な友情がある。憎悪・嫉妬・妄執によって苦しめられる怨嗟の三角関係ではない。かと思えば小林と中也の友情はまことにあっけらかんとしたものである。無論、その中心には常に泰子の存在がある。
泰子は己を形容するところ二人の間を「つっかえ棒」にして生きている。中也との関係が提示されたかと思いきや、その生活は感情闘争とでも形容可能な、直情的なコミュニケーションである。その一方でスマートな小林から告白されてその居住まいを共にすることになるが、丁寧に表面をなでつつ深部を探っていくような小林のコミュニケーションは中也とは体系自体を異にしている。泰子はそのどちらかだけに住むことができず、であるがゆえに二人をつっかえ棒にして生きている。
小林との生活はやがて泰子に神経症をもたらす。精神の安定しなかったという母の話に始まる泰子の行き場のないエネルギー。それは殴られれば殴り返すことのできた中也とのコミュニケーションと異なり、小林はそもそも殴ってこないから、殴り返すことによって逃がしていたエネルギーが体内で暴発し、その身体反応として表れた病気のようでもある。
橙の柿を拾って赤の傘と交換したことにより成立した中也との関係は徹底して赤に貫かれた関係でもあった。中也の友人は赤い血を台所に吐き、いざ泰子が小林のもとへと出奔するとき、中也は幼き日に母に編んでもらった小さな赤い手袋を丸めて自分の心臓だと言って渡す。一方、小林との関係は舟遊びに興じながら黒く変色しかけた緑色のリンゴをかじったことに端を発していた。やがて小林がその家に置く真っ白な朝鮮白磁が、けたたましく鳴る時計の鐘を鎮めるために投げ割られた時に二人の関係はある種の臨界点に達する。
雪、そして桜、そのようなマテリアルが全編に散りばめられながら最終的に中也は真黒な黒煙として表される。あらゆる色を混濁していった果てに黒色として排出される中也の姿に泰子は昔を振り返って「不幸な時代だった」と小林に語る。それはもちろん虚無の表明ではないだろう。
中也の存在は泰子にとって非常に重要なものだった。何十年も前に作られたというこの映画の脚本が不思議と新鋭・山中瑶子によって生み出された『ナミビアの砂漠』と共通しているのは、その主人公・カナと『ゆきてかへらぬ』の映画における長谷川泰子が精神的な同志であるという点である。『ナミビアの砂漠』においてはハヤシという存在によってカナは一つの世界を形成するに至り、二人はその内部で二人にしか分からない規則(コード)を共有しながら全身を賭したゲームに興じていた。一方で、『ゆきてかへらぬ』では、泰子は中也とも小林とも一つの完結した世界を持つことができず、それぞれとの不完全な世界を行ったり来たりすることで世界に存在している。それを泰子は「不幸な時代」と呼んでいるのではあるまいか。
それでも、もし小林が現れなければ泰子と中也はカナとハヤシになりえていたのではないだろうか。二人は結局、京都を飛び出し東京へと出てしまい、そのことによって小林秀雄と出会う。それは中原中也が天才詩人だからにほかならず、一方で小林秀雄が世をときめく批評家だからだ。世の中が二人を放っておかないのだ。
泰子も中也も小林もそれぞれの世界で自分が真ん中だと、疑うことなく生きていて、それぞれの世界がその結果、衝突を起こす。ハヤシのいない世界でカナが生きていく方法というのはよくわからない。だけれども、泰子は最後には「不幸な時代」を終えて一人で生きていくことになる。
中也はいまや多くの人から忘れられて死に、泰子と小林は黒煙が上がるのを見る。不幸な時代は遠くに去っていく。フランソワ・トリュフォーが描いた偉大な三角関係の映画である『突然炎のごとく』もやはり黒煙を前に取り残されたジュールの存在によって幕を閉じる。それはトライアングルを形成していたカトリーヌとジムが自殺同然に死んでいったからだ。今回、残されたのは泰子と小林の二人である。映画はティルトアップして空をうつして終わる。一人空を見上げるジュールと空から二人を見下ろす中也。生きていることと死んでいることに、この場合ほとんど違いはない。
(2025.2.21)

(C)2025 「ゆきてかへらぬ」製作委員会

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