2012年9月 ③
お金や物質で援助できなくても、意識を捧げることで変えられる何かはあるか?
すべては幻かもしれない。目の前に見えるもの、それは自分が作り出したもので、他の人の目には同じようには映っていなくて、自分にだけ起こっていることなのだとしたら?「人の目には同じように見えない」と思えるようになれば、他人の事をとやかく気にすることはなくなるのではないだろうか?そんな気がする。
いつか出会う。ふと腑に落ちるその答えに。「見つからない」って焦ってもがくけど、ちゃんと出会える。「そこ」へ向かっていると信じて過ごすなら、必要な時に現れる。答えがすぐにわかってはもったいない。必要な経験をしたら、ちゃんと現れる。
「どうでもいい」と思えば、どうでもいい結果になる。
見るものすべてが気に入らなかったのは、自分を受け入れてなかったからかな。「自分が嫌い」だったんだ。
人のことを決めつけてはその人を作り上げ、自分の都合のいいように世界を見てきたのかも。他人に罪はないのに。その人の存在を否定するような態度をして、自分がそこへ追いついていない言い訳探しみたいなことばっかりして。
もし、人をただ「その人だ」と受け入れて気にせずに生きて行けたなら、苦しまずに済むだろうか?北大路魯山人が言った『本当のことを言っても気を悪くされない社会を』みたいに、楽になるだろう。「人は、その人の見ているものしか目の中に映っていない」と捉えて、自分のことだけを考えて生きて、何躊躇なく人に接することができたらすごく自由だ。
自分のことだけに専念できたなら、自分を輝かせる時間が増える。自分が幸せでいれば、周りをも幸せにするだろう。その時にこの言葉が意味を成す。
クリスチャン。「他人をケアする」という点で温かみがある。ただし、ある一定の場所へ出掛けて行かなければならなかったり、集団行動を要請するという点においては、興味を惹かれない。好きな時でそうしたいと思う時に、自分の胸の中で光を放つように信じたいことを信じていればそれでいいと思う。
バイブルで学ぶことは、もしかすると、実際に経験することと比例するのではないか?頭を動かすよりは行動した方が早い。
これがあるとバランスが取れる、という軸のようなものだ。椅子の背もたれのように、「ある」とわかって安心して身を任せられるような。宗教とは、それくらいの具合でもたれかかる程度でいい。
自分の気持ちを曲げることなく、圧をかけることもなく、自分の許容範囲とペースで、自分のやりたい時に、やりたいと思う分だけやれば、物事は必ずスムーズに行く。目に見えないプロセスを、「そこにある」と確信できるようになれたらな。
信じることができた時、怖いものはなくなる。
何かが変わったような。移行の時期のような。そんな気がする今日この頃。
月と体の関係。
祈る時、頭の中の暗闇、ちょうど眉間の辺りに小さな穴があって、そこへ砂がさーっとすべり落ちて行くように何かが流れ出てゆく。もしかしてそれはエナジー?自分から湧き出る?祈ることでその穴へエナジーが送り出されるのかな?その穴はどこへ繋がっているんだろう?夢の世界?
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